じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] ヤツシロソウ。リンドウ咲きカンパヌラともいう。この時期には、フウリンソウやモモバギキョウなど、カンパヌラ属の多様な花が花壇をにぎわす。



6月12日(火)

【思ったこと】
_10612(火)[一般]歴史教育についての別の見方(その3)過去の歴史を眺める目と動物行動

 昨日の日記の続き。何度かお断りしているように、私は歴史教育については全くの素人である。それゆえ、ここで書いていることも、広範囲に文献を集めた上での総括的な論考ではなく、むしろ、本来の自分の研究分野と関連しそうな部分だけについての類推にならざるをえない点をご了解いただきたい。

 そのような視点から今回特に興味をひいたのは、
歴史を学ぶとは、今の時代の基準から見て、過去の不正や不公平を裁いたり、告発することと同じではない。過去のそれぞれの時代には、それぞれの時代に特有の善悪があり、特有の幸福があった。
という記述である。実はこれに非常によく似た発想が、動物行動の研究においても成り立つように思われる。すなわち、上記を言い換えてみると、
動物行動について研究するとは、人間行動の基準から見て、動物行動の残虐さや不公平さを裁いたり、告発することと同じではない。動物のそれぞれ種には、それぞれの種に特有の善悪があり、特有の幸福がある。
ということになるのではないかと思う。

 この発想は動物行動を理解する上で非常に大切なことだ。人間行動の基準や価値観で動物行動を説明しようとすることは擬人化に繋がる。クジャクは美的センスに優れているとか、人間に忠実なイヌは道徳をわきまえている、といったたぐいのコジツケである。

 そういう擬人化は動物小説としては面白いが、動物行動を科学的に説明するパワーを持たない。そこで、モルガンの公準:
科学者は,もしある心理学的事実がより低次なメカニズムにより説明可能なら,より高次なメカニズムに説明を求めてはならない
というような前提に基づいて研究が進められることになる[モルガンの元の文献が手元に無いので、上記は孫引き。念のため。]

 モルガンの公準に基づいて動物行動を分析する限りにおいては、「人間行動の基準から、動物行動の残虐さや不公平さを裁いたり、告発する」などということはあり得ないが、同時に、TV番組でしばしば紹介されるような、献身的な子育てや親子の絆も人間の言葉で解釈してはならないということになる。カルガモの雛が親鳥の後を行列を作って行進していくのは「母親を慕う心があるから」ではない。あくまでインプリンティングとして説明できる。キタキツネが厳格な子別れの儀式を断行するのも、子の将来を考えた厳しい子育て観に基づくものではなく、単に、ホルモンの変化や縄張り行動の一環として説明できる。

 もちろん、イソップの寓話や『シートン動物記』のように、擬人的に語られる小説にもそれなりの価値があるのだが、それらは動物行動の科学とは言えない。活用される場や目的が全く異なっているのである。

 以上を歴史教育の問題に当てはめることはしょせん無理かもしれないが、私は、冷めた科学としての歴史学は、過去を反省したり自国の誇りを強調したりすることと別に存在するものでなければならないと考えている。

 さて、このあたりからは、勉強不足でますますあやふやな主張になってしまうのだが、歴史を冷めた目で見るということに徹すると、どの時代の戦争も

〜という情勢の中で、〜が勝利し、それによって〜が変わった

というような記述に徹することになるのかと思う。そのさい、必ずしも「正義」が勝利するとは限らない。正義であろうが悪であろうが、結局は、国土、資源、技術、統制力などで優位な国が勝つという説明だけに終わってしまう恐れもある。言わば強者の歴史である。もちろん、自然界の進化のプロセスにおいても弱肉強食だけで説明できるものではなく、多様性を前提とした共生の大切さが見直されているわけだが、それでもなお、人類の将来を見据えるには不十分であるかと思う。

 となると、過去の歴史が如何に強者の歴史に終わるとしても、これからの世界ではある種の「目的指向システムデザイン」がやはり必要になってくるように思う。前にも引用したが、マロットの行動分析学の教科書(『Elementary principles of behavior』(Malott et al., 2000)の第26章の「THE WELL-BEING OF LIFE FORMS (HUMAN, NONHUMAN, AND PLANT) 」という節の一部を再掲しておくことにしたい。
Regardless of how humanity got here, whether through divine decree or cosmic accident, we suggest that humanity should select as its purpose the well-being of life in the universe. We suggest this, even though a careful analysis shows that purpose doesn't logically follow from Darwin's analysis of the evolution of life forms. We believe human beings can act intelligently enough to select their purpose; and we nominate the well-being of life as the purpose we human beings should select.
この連載、あと一回で終了の予定。
【ちょっと思ったこと】