じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] ジャガイモの花。今年は晴天が多かったので、玉ネギに続いてジャガイモも豊作になりそうだ。



6月11日(月)

【思ったこと】
_10611(月)[一般]歴史教育についての別の見方(その2)歴史は、過去の人がどう考えていたかを学ぶことなのか。

 今回は、昨日の日記で掲げた3つの論点の2番目:

歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことなのか。

について、素人なりに考えてみることにしたい。念のためお断りしておくが、扶桑社の『新しい歴史教科書(市販本)』は未だ注文中であり私の手元にはない。今回の論点は日記才人(サイト)登録のWeb日記:愚一記さんの6/4の記述から知り得た内容である。愚一記(「ぐいちき」と読むのかと思っていたが、最近、タイトル欄に「Gupinki」という読みが付記されていることに気づく)によれば、『新しい歴史教科書(市販本)』には
  • 歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだと考えている人がおそらく多いだろう。しかし、必ずしもそうではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことなのである。
  • 歴史を学ぶとは、今の時代の基準から見て、過去の不正や不公平を裁いたり、告発することと同じではない。過去のそれぞれの時代には、それぞれの時代に特有の善悪があり、特有の幸福があった。
というような倫理相対主義的な記述があるという。これはあくまで間接的な引用であり、どういう文脈の中で主張されたのかは原文を拝見するまでは判断できない。そこで、今回は、『新しい歴史教科書』の内容がどうだということではなく、あくまで一般論として、歴史における相対主義的な見方について考えることにしたい。

 さて、私自身は、善悪、幸福観、価値観などが時代とともに変容していくことは当然であろうと思っている。もっとも、ひとくちに時代と言っても、何千年も前の「時代」と50年前の「時代」をいっしょくたにして論じることはできない。今の時代の基準がどこまで適用できるのかは時代の古さによって相対的に決まってくるのではないかと思う。

 例えば、アフリカ系米国人の先祖は大部分、アフリカから奴隷として連れてこられた人々である。また、それ以前、北米大陸には多くの先住民(Native American)が生活していた。それらの土地を奪い奴隷を虐待したヨーロッパ人の行為は今の基準から見れば悪である。しかしだからと言って、土地の全てを先住民に返し、奴隷の子孫はアフリカの大地に戻り、ヨーロッパ人たちはすべて先祖の国に帰れということにはなるまい。

 少々脱線するが、人間の歴史をずっと遡れば、ニホンザルと同じような母系社会の時代があったかもしれぬ。私自身、ニホンザルの群れを数年ほど観察したことがあるけれど、あれはあれで実にうまく統制がとれているものだ。例えば、群れの中に、餌箱を1つだけ置いたとすると、まずはボスザルがそれを独り占めして好きなだけ餌を食べる。ボスが離れるとNo.2、No.3、....というように順番に餌を食べにくる。弱い家系の個体は、図体が多少大きくてもじっと順番を待っている。こういう光景を見て、これじゃあ不公平だ。ローテーションかくじ引きで順番を決めろなどとボスにお説教をしても始まらない。ニホンザルの群れに見られる「順位制」は確かに不公平ではあるが、これによって群れの中での無用な衝突は最小限にくい止められるし(順位が無ければ、そのつど奪い合いで傷つけあうことになるだろう)、オスが群れから締め出されることによって近親相姦を避ける効果もある。原始時代に、人間が同じような社会を作り、それにより一部の人間が虐待されたとしても今の基準で悪とは言えない。

 しかし、数十年から100年程度前までに起こった出来事となれば話は別である。現在と政治や経済、生産手段、兵器などに多くの共通点が見られる以上、現在の基準に照らしながら過去の問題点を徹底的に洗い出し、同じ過ちを繰り返さないように防止策を考えることが大切かと思う。

 ところで、一般論として、

  1. A国は50年前にB国を侵略し、多くのB国民を虐殺した。
  2. だからA国はB国に謝罪すべきだ。
  3. お前はA国人だ。だからお前も謝罪すべきだ。
という論理は成り立つのだろうか。私は、このうちの1.は歴史的事実として、B国はもとよりA国の歴史教科書でもきっちり取り上げるべき問題であると思うが、そのことをもって2.や3.が当然であるかのように主張することには賛成できないところがある。というよりも、一番の問題は、「A国が....」、「B国が....」というように、1つの国の行為を個人の行為と同じようなものとして捉えてしまい、その国の子孫までが一体のものとして責任を負わされることに一番の問題があるように思う。

 そもそも、
A国はB国を侵略し、多くのB国民を虐殺した。
という出来事と
A容疑者はBさんの家に侵入し、Bさんを惨殺した。
という出来事は根本的に異なる、と私は思う。後者はA容疑者個人による犯罪であるから当然刑事責任が問われるが、前者の場合、ひとくちに侵略と言っても
  • A国の軍人がクーデターを起こし、A国の若者達を銃剣で脅しながらB国を侵略させた。
  • A国にカリスマ的な指導者が現れ、過激な思想で国民をマインドコントロールしB国を侵略させた。
  • 言論や政治活動の自由が保障されているA国で、公正な選挙に基づいて選ばれた政府がB国へ宣戦布告し、A国の志願兵がB国に侵略した。
といったケースでは全然意味が異なってくると思う。要するに「国」というものを個人と同一であるかのように錯覚して、「お前の国は私の国にこれだけ悪いことをした」、「いや、お前の国こそ、これだけ悪いことをしている」などと取引の材料に使うのは全く無意味である。もっとグローバルな視点で、
  • 独裁政権はどういう状況のもとで生まれやすいのか。
  • どういうイデオロギーが国民を熱狂させやすいのか。
  • 戦争を回避するためには経済依存関係や国際交流をどのように保持することが必要なのか。
といった問題を考えていくことが大切ではないかと思う。



 もういちど最初の問題に戻るが、私は
歴史を学ぶとは、今の時代の基準から見て、過去の不正や不公平を裁いたり、告発することと同じではない。過去のそれぞれの時代には、それぞれの時代に特有の善悪があり、特有の幸福があった。
というのは基本的には正しい物の見方だと思う。しかし、「今の時代の基準から見て、過去の不正や不公平を裁いたり、告発することと同じではない。」という論理は、ネガティブな現象ばかりでなくポジティブな現象についても当てはまるという点に、もっと気づく必要がある。というのは、この論理からは
歴史を学ぶとは、今の時代の基準から見て、過去の英雄的な行為や、ご先祖の苦難に満ちた努力の歴史を賞賛することと同じではない。過去のそれぞれの時代には、それぞれの時代に特有の善悪があり、特有の幸福があった。
という主張も同じように導かれるのである。つまり、過去の不正を今の時代の基準で裁けないということは、過去の偉業を今の時代の基準でストレートに賞賛するわけにはいかないし、国威発揚を目的とするような教育、ご先祖を称えて愛国心を育成するような「目的論史観」に基づく教育はすべて排除されなければならないという主張に行き着くのではないかと思うのだがいかがだろうか。次回に続く。
【ちょっと思ったこと】