じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

6月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る

[今日の写真] ビロードモウズイカ(「ビロード(天鵞絨)」+「モウ(毛)」+「ズイカ(蕊花)」)。幕末から明治にかけて紡績工場が作られ、その際に輸入した綿花についてきたといわれる。高さは2mを超える。特に種を蒔いて育てているわけでもないが、どこかでちゃんと育つ。



6月10日(日)

【思ったこと】
_10610(日)[一般]歴史教育についての別の見方(その1)歴史は国や民族の数だけあるものなのか。

 扶桑社の『新しい歴史教科書(市販本)』が刊行されたことによって、新聞紙上やWeb日記作者の間で、歴史教育についてのいろいろな考えが発せられるようになった。当該の本についての評価は分かれるところであろうが、少なくとも、歴史をどう教えるかについての議論が高まった点はポジティブに受けとめてよいのではないかと思う。

 今回の問題は、中国や韓国との間の政治的な問題として注目されがちであるが、それ以外に少なくとも3つの論点があるように思う。それは
  1. 歴史は国や民族の数だけあるものなのか。
  2. 歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことなのか。
  3. 歴史教育は教わるものなのか、考えさせるものなのか。
 このうち1.は、「歴史は民族によって、それぞれ異なって当然かもしれない。国の数だけ歴史があっても、少しも不思議ではないのかもしれない」という、上掲書の序文に由来する議論であり、6月8日の朝日新聞文化欄・思潮21で、入江昭・ハーバード大学教授がこの問題を取り上げておられた。入江氏は、太平洋戦争の起源、あるいはその性格についての議論を例としながら
  • ハリウッド映画「パールハーバー」のようなものを通してアメリカ人が日米戦争を理解しているのだとしたら、日本海軍による奇襲だけに焦点があてられ、そのために戦争になったのだ、という単純な歴史解釈しか生じない。
  • もしも米国が門戸開放とか人権とかを掲げて、日本の大陸進出に反対していたのならば、何故もっっと早くから、例えば満州事変勃発当時から、日本の中国撤退を主張しなかったのか。.....米国から見た日米開戦のイメージに、歴史的背景の考慮が不十分であることは指摘されてよい。
  • 日本の教科書における「米国による日本への中国撤退要求が日本政府の対米開戦を決意させた」という記述では、その背景について、米国の教科書にあるような説明もなく、何故日本は中国を侵略したのか、何故米国との戦争まてもして、中国支配を続けることが重要だとされたのか、などについての記述がない点で物足りなさを感じる。
といった指摘をしておられた。確かにこのあたりは謎である。私が小学校低学年で教わった開戦の理由はもっとシンプルなものであり、
日本はドイツと同盟を結んだ。ところがドイツがヨーロッパで悪いことをしたので、日本もその仲間ということで悪者にされ、米国や英国から意地悪をされた。それに耐えきれなくなって米国を攻めた。
こういうアナロジーは子供には直感的に分かりやすいものであったが、私などは逆に高学年に入ってから本当にそうだったのかという疑問をいだかせるきっかけになった。

 「国の数だけある」と言われる「歴史」は、暗い過去にはあまり触れたがらないという点で共通性があるようだ。同じ6月8日の別の記事「記者は考える」で大野博人・パリ支局長が、フランスの小中高校では、アルジェリア独立に関して、「教育省の指導も時間割りも教科書も、生徒たちに最小限のことしか知らせないようにできている」という批判があることを紹介しておられた。今のアルジェリアで人権侵害が続いているにも関わらず、フランスは植民地支配時代の後ろめたさからそれを批判できない事情があるらしい。このほかの列強がかつての植民地支配をどう記述しているのかを調べてみることも必要かと思う。

 現状認識として、歴史が国や民族の数だけあるのは事実であろう。しかし、その事実があるからと言って、自国サイドだけの歴史を学べばよいとは言い切れない。入江氏は、論考の最後の部分で、
戦争に限らず、平時においても、各民族、各国民は世界に共生し、同じ時間を共有するものである。その事実を把握し、お互いがお互いの運命とどう関わり合っているのかを探る。それが歴史を学ぶ根本的な目標ではなかろうか。そうだとすれば、歴史というものは決して各国別個のものではなく、世界中すべての人々に共有されるものだ、ということになる。
と強調しておられるが、この視点は大切ではないかと思う。



 さて、この連載は全くの素人の立場から考えを述べているにすぎないのだが、「歴史は民族によって、それぞれ異なって当然かもしれない。国の数だけ歴史があっても、少しも不思議ではないのかもしれない」という部分を 「心理学は個人によって、それぞれ異なって当然かもしれない。人間の数だけ心理学があっても、少しも不思議ではないのかもしれない」というように置き換えてみると、心理学における一般法則と個人の関係によく似た問題を含んでいるように思える。

 例えば、非常勤講師先で教科書として使っている『痛快!心理学』(和田、2000)は、「なぜフロイトは偉いのか?」(p.22)という節で
 フロイトが「人の心は千差万別だ」と発見したことによって、臨床心理学は本格的にスタートしたと言えます。
 逆説的に聞こえるかもしれませんが、人の心には一般論が通用しないとわかったからこそ、臨床心理学は初めて学問になったのです。
 もし、どんな人にも通用する「心の一般法則」なんてものを探そうとしていたら、臨床心理学はたちまち行き詰まっていたことでしょう。人の心には、物理学や数学のような整然とした原理や法則はない-----そのことを明確にフロイトが指摘したからこそ、その後の臨床心理学は発展することができたと言えるのです。
として、「心理学は個人によって、それぞれ異なって当然かもしれない。人間の数だけ心理学があっても、少しも不思議ではないのかもしれない」という立場を唱えているように見える。しかし、実際には、無意識についての局所論モデルや自我・エス・超自我の3点セットでおなじみの構造論モデルなど、一般論に基づいて個々人の心理を説明しようとしているのは周知の通りである。

 6/7の日記にも記したように、私自身は「一般性のある法則を見つけること」と「その法則が実際にどう働くかを調べること」をリンクさせることは心理学における重要な課題ではないかと思っている。「心理学は個人によって、それぞれ異なって当然かもしれない。人間の数だけ心理学があっても、少しも不思議ではないのかもしれない」という立場だけでは、他者との関係性に立脚した個人観は成り立たないし、他者と仲良くすることもできない。入江氏の最後の部分を個人に敷衍するならば
他者との衝突に限らず、日常生活においても、個人は社会に共生し、同じ時間を共有するものである。その事実を把握し、お互いがお互いの運命とどう関わり合っているのかを探る。それが心理学を学ぶ根本的な目標ではなかろうか。そうだとすれば、心理学というものは決して各人別個のものではなく、世界中すべての人々に共有されるものだ、ということになる。
という主張も成り立つように思う。2.と3.については、次回に続く。
【ちょっと思ったこと】

結婚18周年

 我が家では6月中旬に結婚18周年を迎える。来週の日曜から海外研修を予定しているため、今年は少し早め、土曜日の夜に近くのベーカリーレストランでお祝いをした。

 結婚生活も18年目となると夫婦間の話題は枯渇し、成長した子どもたちも学校生活のことなどはあまり喋りたがらない。そこで某Web日記作者が毎日出題している「なぞなぞ」など思い出しながら場を盛り上げる。「お父さんが嫌いな果物は?」には娘が瞬間的に答えた。「家の中で無口になる所は?」や「亀が運んでくる飲み物は?」には息子がちょっと考えてから正解を出す。誰もできなかったのは「乗る時に降りるのは?」。岡山在住者にはちょっと無理だったかもしれない。

 結婚記念日が近いせいか、このところ3日続けて妻が登場する夢を見た。
  • 引っ越しの前日の午後、妻が渋谷に買い物に行きたいと言い出したため、「このクソ忙しい時に遊びに行くとは何事か!」と喧嘩した夢(←実話ではない、念のため)
  • 土産物屋で妻が長時間買い物をしているので店の隅で立っていたら店員に邪魔だと言われて喧嘩した夢(←実話ではない、念のため)
  • 近くで開かれたバザーから帰った妻が、パックご飯(電子レンジで温めて食べるご飯)ほどのサイズの特大の納豆を10パックも買ってきたので、「いつも賞味期限を過ぎるまで冷蔵庫に入れっぱなしにしているのに、こんなにたくさん買ってきてどうするんんだ」と喧嘩した夢(←これも実話ではない、念のため)
という3話。いずれもあんまり楽しい夢ではなかったなあ。