じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] オオキンケイギク。繁殖力が旺盛で旭川土手では野生化している。この花壇でも、種ができる前に抜いているのだが、抜き損なった小さな株からこぼれた種で毎年必ず花を咲かせている。



5月20日(日)

【思ったこと】
_10520(日)[心理]京都心理学セミナー(5) 「acceptance」の技法

 5/18の日記に引き続き、5/12に行われた「京都心理学セミナー:ことばと体験をつなぐもの〜心理療法からエコマネーまで〜」の感想を述べることにしたい。

 武藤氏は、Acceptance and Commitment Therapy (ACT) の援助手続のポイント:
  1. 「救いがない」ことが「救い」なんだというところから始めよう
  2. 「コントロール」というやり方こそが「問題」なんだ
  3. ことばの「毒抜き」をしよう
  4. 自分を「一歩下がって」見てみよう
  5. 求める「価値」とは何なのか
  6. アクションに移す前に準備を始めよう
に関していくつか具体例を紹介された。ここで、今回のセミナーの内容から少し外れるが、私自身が入手している資料:


●Hayes, S. C., Kohlenberg, B. S., & Melancon, S. M. (1989). Avoiding and Altering Rule-Control as a Strategy of Clinical Intervention.
In Hayes (ed.) (1989). Rule-governed behavior: Cognition, contingencies, and instructional control. Plenum.

●Hayes, S. C., & Wilson, K. G. (1994). Acceptance and commitment therapy: Altering the verval support for experiential avoidance. Behavior Analyst, 17, 289-303.

をもとに、ACTが確立された経緯についてもう少し述べておくことにしたい。

 ACTの援助手続については、すでにHayes et al.(1989)の中で、お馴染みとも言える事例がいくつか紹介されている。その後のHayes & Wilson (1994)などを見ると、その技法は100以上にもなる。いま少し、いくつかの事例を紹介すれば、
  • ミルク・エクササイズ:「ミルク」を何度も、出来るだけ早く大きな声で言わせることで、「ミルク」が喚起する心理的イメージが消える。これにより、「ミルク」のsense-makingをヤメさせる効果がある。
  • 「but」ではなく「and」を使う協定:「ワタシは行きたい。but 不安である」というように、「X but Y」という表現は、XとYの共存を否定し、生産的な活動の足をひっぱる効果がある。そこで常に「and」を使うようクライアントと約束する。
 前回も少しふれたように、Acceptance and Commitment Therapy (ACT)で言うところの「acceptance」は、行動分析家が新たに発明した概念ではない。むしろ、種々の心理療法(例えばRogersのクライアント中心療法、ゲシュタルト療法など。おそらく論理療法もこれに含まれる)でキーコンポーネントとしての役割を担ってきた。Hayesらの貢献は、その概念の有効性を、行動分析の概念的枠組みに基づいて実証しようとした点にあるというのが私の考え。もっとも、この方面ではまだまだ文献が読み足りない。誤りがあればご指摘いただきたいと思う。

 時間が無くなってしまったので高橋氏の話題提供については次回に。
【ちょっと思ったこと】

山形大学工学部の入試で配慮すべきこと

 山形大学工学部で、入試得点集計プログラムに設定ミスがあり、過去5年間で400名を超える受験生が不合格にさせられてしまったという。大学では、今年の90名はもとより、過去に遡って合格通知を出す方向で検討をしているというが、配慮はそれだけでよいのだろうか。

 一般に、入試の得点集計ミスがあった場合、合格者と不合格者は次の4通りに分かれる。
  1. ミスが無ければ合格していたが、ミスがあったために不合格にさせられた者
  2. ミスの有無に関わらず合格していた者
  3. ミスが無ければ不合格になっていたが、ミスに救われて合格となった者
  4. ミスの有無に関わらず不合格となった者
要するに、過去5年間で400名超の不合格者があったということは、その人数分、本来不合格になるはずの400名が合格していたということを意味するのだ。

 となると在学生や卒業生はどういう気持ちになるだろうか。「努力で合格を勝ち取った」という自信とプライドに疑念をいだく学生は出てこないだろうか。また周囲からこのことで不当な中傷を受ける恐れもある。

 今回のミスは、受験生が入試成績の開示を求めた結果発覚したというが、開示を求めた結果、「ミスが無ければ不合格になっていた」と判明した学生への精神的ケアも必要になってくると思う。

 もう1つ、この大学や学部教授会は入試制度の改善にいったいどう取り組んでいたのだろう。集計ミスの対象となったのは、「センター試験国語(古文と漢文を除く)得点を2倍して合計点に加える」という部分であったというが、合格者がどのくらいの得点をとっていたのか、配点は妥当であったのかなどについて全く追跡調査が行われていなかったとしたら怠慢としか言いようがない。

 最近では「admission policy」などと言われるように、各大学とも「どういう学生を求めるか、そのためにどういう方法で入学者を選ぶか」を検討することが求められている。試験問題も見ず、得点状況も確かめずに、「現代国語は必要だから、200点ぐらい加えておけばよいだろう」などという安易な発想で合格者をもし決めていたとしたら、そちらのほうも批判されなければならない。



所沢ダイオキシン訴訟のお門違い

 少し前の話題になるが、1999年に所沢のダイオキシン汚染報道に関連して農家がテレビ朝日に損害賠償を求めていた裁判で、15日、さいたま地裁は、「報道は主要部分で真実」と認定し、損害賠償を求めた農家側の訴えを棄却したという。

 ニュースステーション側に事実に反する報道があったことは確かでありこの点でテレビ局や久米氏が相応の謝罪をすべきことは当然であると思うが、この問題を、松本サリン事件をめぐる行きすぎた報道と同一に扱ったり、メディア規制に利用しようなどという動きがあるのは納得がいかない。

 この種の問題でいちばん重要なことは、消費者の健康をいかに守るかということだ。一般論として、ある地域で焼却炉からダイオキシンが飛散していたことが事実として確認された場合、行政機関は、真っ先に、その周辺の土壌や農産物の安全性を確認する義務がある。また「絶対に、すべて安全」が確認されるまでは、その地域の農産物の出荷を停止する処置をとることも求められる。この場合、農民の目先の利害よりも消費者の健康が優先されるのは当然であって、もし、その際の報道によって農産物の価格が暴落した場合には、損害賠償はダイオキシンの発生源や、それを放置した行政側に向けられるべきである。食品の安全は、「有害であるとは必ずしも言えない」レベルでは困る。有害の危険性が絶対無いということが100%実証されるまでは出荷を自粛するくらいの態度で臨んでもらいたいものである。

 少し前に中国産のネギや生椎茸の緊急輸入制限のことが話題となったが、これからの時代、国内の農家は何よりも安全性をセールスポイントとして、外国からの価格破壊攻勢に備えてほしいものだ。あくまで一般論になるが、農産物を購入する際、出荷する農協が環境問題、農薬使用などについてどういう方針で臨んでいるのかが重要な決め手になっていくものと思う。

[※5/21追記] ネットで検索したところ、いろいろな論評がヒットした。とりあえず目に付いたものをリンクさせていただく。