じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] シラー。英語ではwood hyacinthなどと呼ぶらしいが、花が開ききってしまうとヒヤシンスより見劣りする。



4月28日(土)

【思ったこと】
_10428(土)[教育]21世紀の大学教育(5)ネットを利用した大学教育(2)授業を補完する手段としてネット利用

 昨日の日記の続き。今回は、授業を補完する手段としてネット利用する場合について、私自身の体験をまとめてみたい。
  1. シラバスのWeb化。
  2. 講義専用サイトの開設(毎回の講義概要のWeb公開、小テストの解説、関連サイトの紹介、期末試験の解説、得点分布の公開など)。
  3. Eメイルまたはネット掲示板による質問の受付。


1.シラバスのWeb化

 今年から試行的にシラバスの一部をこちらでWeb化してみた。文学部のシラバスは現時点では印刷冊子として配布されている。学内では一部の学部で、印刷冊子に代えてCD-ROMを配布しているところもあるが、Web化すれば、
  • 経費節減になる(冊子の印刷代、あるいはCD-ROM制作費)
  • 最新の情報を掲載できる(現状では、後期の授業のシラバスも前年度の12月頃までに提出しなければならない)。
  • 必要あれば、リアルタイムで授業の進行状況を紹介できる。→これは次の2.で述べる。
 いっぽう全学のすべての授業シラバスをWeb化した場合、
  • 履修登録前の特定時期にアクセスが集中する恐れ。
  • ネットを利用していない学生は大学の情報処理室や図書館のパソコンを利用することになるが、それだけの収容スペースがあるかどうか。
  • 入学したばかりの学生の中にはネットを使えない者も多く、履修登録前にシラバスを参照できない恐れがある。
といった問題点が想定される。
 ちなみに、このシラバスWeb化に限っては「ネット利用行動」は強化しなくても起こるものである(厳密には、「シラバスを閲覧しないと履修上の不利益を被る」という「好子消失阻止の随伴性」によって強化される)。問題点はむしろ、設備など環境面で「ネット利用行動」をどう保障するかというところにある。

2.講義専用サイトの開設

 1999年度から、公用サイトで、自分の担当している授業それぞれの専用サイトを開設している(過去の記録はこちらから)。それぞれの専用サイトでは
  • 毎回の講義概要の記録
  • 小テスト解説
  • 関連サイト紹介
  • 期末試験解説
  • 得点分布
などを公開した。公用のサイトの場合はurl別のアクセス数のチェックができるので、現在、利用状況を集計中である。補足資料をネット上で公開することは、紙資源の節約にもつながる。

Eメイルまたはネット掲示板による質問の受付  私の授業では、上記の講義専用サイトと対応する形で、ネット掲示板(伝言板)を開設している。個人的な相談にはEメイルでも応じているが、同じような質問に個別に答えるよりも、掲示板で答えたほうが、受講生・教員全体で情報を共有できるというメリットがあるように思う。

 もっとも、実際には、質問の数はきわめて少ない。半期の授業で数件程度に終わったこともあった。このあたり、
  • もともと質問が出ないぐらいに分かりやすい?授業なのか。
  • 質問を思いつくほど深く聴いていないためなのか。
  • ネット利用者が少ないために質問できない状態にあるのか。
といった点は、いまひとつ分からない。ネット掲示板を通じた質問行動をいかに強化するかは、「〜行動をいかに強化するか〜」という今回のシンポのテーマの1つになりうるものである。次回に続く。
【思ったこと(2)】
_10428(土)[心理]「心の傷」表現は大流行しているのだろうか

 少し前の話題になるが4/25の朝日新聞「eメール時評」で、消費文化研究者・三浦展氏が“「心の傷」表現が大流行”というエッセイを書いておられた。

 三浦氏によれば、いまの時代、トラウマ告白が大流行しているのだという。その証拠として挙げられたのは
  • 浜崎あゆみが3月にベストアルバムをリリース。
  • 鬼束ちひろが歌う、彼女自身の高校生活の体験。
  • 梅宮アンナの『「みにくいあひるの子」だった私』出版。
  • 飯島愛の『プラトニック・セックス』
  • 田口ランディの『もう消費すら快楽じゃない彼女へ』など十数冊。
 もちろん、過去の悲しい思い出を歌や本にすることは昔からいくらでもある。三浦氏ご自身も、「家族とのあつれきをあからさまに表現することは昔から音楽や小説にはあった」と認めておられるのだが、いまやそれが「大ヒットの条件」になっているという点で大きく異なるのだという。

 三浦氏は最後に、語られる「傷」が実際には大したものでなくても、
  • 自分を傷つけられた存在と規定することが自己表現になっている
  • もはや物の消費や所有が快楽でなくなったために、心に傷を持つことによってやっと自分の存在の確かさを感じる
という効果を発揮していると結んでおられた。

 以上の御指摘については、
  • 「ホンマに大流行しているのか」という事実確認の部分
  • 「物の消費や所有が快楽でなくなったために、心に傷を持つことによってやっと自分の存在の確かさを感じることが流行の原因である」という推理の部分
に分けて妥当性を考えてみる必要がありそうだ。

 もっとも、芸能界や出版業界に疎い私には、トラウマ告白がホンマに流行しているのかどうかはさっぱり分からない。仮に流行しているとしても、若者に流行しているのか、国民全体に流行しているのか、もう少し詳しい客観データが求められるところだ。

 次に、後者の推理の部分だが、「着るモノ持つモノみんな同じ」を求めるばかりに没個性化が進み、トラウマ以外に自分らしさを語ることができないというならば分からないでもない。価値観の多様化と言われるわりには、いまの時代、うすっぺらいレベルでしか違いが見えてこないように感じるからだ。

 しかし、「心に傷を持つことで自分の存在の確かさを感じる」ことと、「トラウマ告白の歌や本が流行すること」は本来別物であるはずだ。なぜなら、もし仮説の通りであるとすると、自分自身のトラウマを語ることによってしか自分の存在の確かさは感じられないからである。タレントや売れっ子の小説家がどういうトラウマを告白しようが、それはあくまで他人のことだ。(自分ではなく)他者の存在の確かさを感じるのが関の山というものだ。

 となれば、もし三浦氏の言うような「物の消費や所有が快楽でなくなったために、心に傷を持つことで自分の存在の確かさを感じる」傾向が本当にあるとするならば、それはむしろ、Web日記の世界で流行るものではないかと思われる。「こんな物を使ってみた」、「こんな所に行ってみた」などの話題に比べて「ぢつは、私は過去にこんな体験があった」という話題をとりあげる日記が増えればお説の通りなのだが、実際のところはどんなもんだろうか。