じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] 時計台前の芝地が黄色の草原になった。「米粒ウマゴヤシ」が繁殖したため。タチの悪い雑草だが、これだけ一面に咲くと見事なものである。右はその拡大図。 [今日の写真]



4月22日(日)

【思ったこと】
_10422(日)[一般]委員はどう選ぶべきか

 新年度に入り、大学の各種委員会がボチボチと第一回目の会合を開くようになった。町内会やPTAなどでも、各種の役員決めが着々と進んでいる。

 この種の代表選びで面白いと思うのは、自分から立候補するような人はまず現れないということ。ヘタに自分から名乗り出るような人は、何かの政治的思惑があるのではと逆に警戒されてしまう。控えめに振る舞うことを美徳とし、選挙で争ってシコリを残すことを避けようとする日本人的な発想?も働いているように思える。そこで、役員決めにあたっては、「誰を選ぶか」よりも「どういうふうに選ぶか」という点でいろいろな智恵が働かされる。ごく一般的な選び方には次の2つがある。
  1. 完全抽選制:選ばれた者は辞退せず粛々と任務をこなす。他者は文句を言わない(←たぶん、陰口は言う)。
  2. ローテーション制:1.と違って偶然による変動が無いため、選ばれる回数が平等になる。何年も先まで予定がたてやすい。
いずれの場合も、形式的には「御異議ありませんか」という形で信任を問うたり、町内会のように、委任状を集めて形式的に住民の総意が反映されたものと処理する場合もある。私の住んでいる町でも毎年、その年の役員が町内会総会の委任状を集めにくる。これなどもかなり形式的であって、総会が行われる会場はせいぜい50人ぐらいしか入れず、委任状を集めた上で成立することを前提として招集されている。もし住民全員が直接出席を表明したら大混乱になるはずだ。

 抽選制もローテーション制も、
  • 負担が平等になる
  • 他者から文句を出しにくい
  • 争いによるシコリが残らない。
  • 不適任者が居ても一年我慢すればかならずやめさせられる。
といった点で、ムラ社会ではそれなりの役割を果たしてきた。大学内の各種委員会でも、おおむねこの方式がとられてきた。

 しかし、昨今の大学教育改革論議のように、何か新しいことを作り出そう、何かを変えようというような議論をする委員会の場合には、これらの選び方には推進を妨げるデメリットがある。なぜなら、何かを改革しようというような問題では、その問題に高い関心を示し積極的に取り組もうとするメンバーと、あまり関心を示さず、できるだけ波風を立てずに問題を先送りしようというメンバーが必ず混在するからである。抽選やローテーションでは、積極的なメンバーを選び出すことができないため、せっかく積み重ね実現しつつあった課題が、消極的な委員が選ばれるという巡り合わせの中で立ち消えになってしまう場合が出てくる。

 専門的知識を必要とする判断が迫られている場合も同様である。昨今話題の国民の司法参加(参審制)の議論でも、選挙人名簿から無作為に抽出された市民がどこまで公正な判決に関与できるのかどうかは疑わしい(1/30の日記参照)。4/22の朝日新聞社説で自民党提言を批判する論調があったが、無作為抽出を否定することは、必ずしも民衆不信の発想には繋がらないと思う。

 同じく4/21の朝日新聞記事では、タイワンザルとニホンザルの混血ザルが見つかった問題で、和歌山市は20日、選挙人名簿から無作為で抽出した県民1000人を対象に、捕獲した混血ザルを、
  1. 不妊手術を施して動物園に飼育を委託するか
  2. 麻酔薬を使って安楽死させるか、
について二者択一のアンケートを実施することになったというが、この場合も、十分な資料提示や、現場での立ち会いも求めないままに、ただ無作為抽出というだけで公正な判断が得られるかどうかははなはだ疑問である。

 元の話題に戻るが、けっきょくのところ、抽選やローテーションによる選び方が有効性を発揮するのは、年間の行事が慣例化していてルーチンが決まっている町内会とか、実務主体の委員会などに限られるように思う。何かを改革しようとしたり、専門的知識を前提に具体的な解決策をさぐるような委員の選出方法としては不適切であろうと思う。

 ではどうすればよいのか。現時点で最善であろうと思うのは、
  1. 政府の各種審議会などと同様、基本的には、「長」として選ばれた人が独自の判断で適任者を任命する。
  2. 審議の過程は、個々の委員の発言内容を含めてすべて公開する。
  3. 公開された内容に対して、ネット上などで誰でも意見を表明できる機会を保証する。
  4. 審議の最終判断に対して、構成員全員が拒否権を発動できる仕組みを保証する。
  5. 任命権をもつ「長」に対しては、一定任期後ごとに、構成員全員が信任投票を行うとともに、緊急時には別途リコールで辞めさせることができるような仕組みを保証する。
というような方策だ。こうすれば、任命権者も選ばれた委員もそう無責任な活動はできなくなる。審議の過程が公開されることで、密室審議や裏取引も防止できる。少し前の某国民会議について出された「個人体験の過剰な一般化」批判なども、委員個々人の発言を含めて審議経過がすべて公開されたからこそ可能となったのである。

 20世紀の社会、とりわけ戦後の日本では、抽選やローテーション、無作為抽出、あるいは形式的な委任状かき集めなどを
  • 文句を言わせない手段
  • ムラ社会にあっては、公平に負担を求める生活の知恵
として利用してきたように思える。しかし、そのことは、選ばれた者においては、改革に消極的な傾向や問題の先延ばしを助長し、同時に、選ばれなかった者においては「お任せします」という形の無関心や消極性を蔓延させるという弊害をもたらした。

 21世紀の社会では、これに代えて、「偶然に頼らず、構成員の中の積極的部分を適切に選び出す仕組み」、「公開性、透明性の保証」、「拒否権の保証」という3つの柱を重視した委員会の設置が必要になってくるように思う。
【ちょっと思ったこと】

記者を殴ることと酒に酔うこと

 4/22の朝日新聞記事によれば、「森喜朗首相の三谷秀史秘書官が20日夜、首相官邸内で森首相に取材しようとした共同通信杜記者の胸ぐらをつかみ、左の顔面を殴打した」という。「同日午後10時半すぎ、李登輝前台湾総統への査証発給問題を巡る河野洋平外相との会談を終えた森首相が執務室から公邸に引き揚げ」た際の出来事」であり、同秘書官はその後、赤じゅうたんに土下座して謝り、さらに翌日改めて謝罪したという。

 このニュースでは、もっぱら、新聞記者への暴行が問題視されていたが、同記事やテレビの報道によれば、三谷秘書官は当時酒に酔っていたと伝えられており、そのことのほうがむしろ問題ではないかと思う。当時、同秘書官が公務の最中であったのか、私的な?時間を過ごしていたのかは定かではないが、首相側近というのは、いつ何時でも緊急事態に対処しなければならない状況にある。まして森首相の場合は、秘書官を非常に頼りにする傾向がある(2/13の日記に記した通り、えひめ丸衝突事故の際には秘書官からの情報を鵜呑みにしていた)。その秘書官が酒に酔っていて、自分の行動に責任を持てない状況にあったとしたら大問題である。

 総裁選ですっかり影が薄くなってしまったとはいえ、もし万が一、今日や明日に緊急事態が発生した場合に指揮を執るのは森・現首相をおいて他にはいない。こういう問題をうやむやにしてはならない。



人工天体三昧

 4/22の夕刻、マイナス7〜9等星級のイリジウム2機とマイナス2等星級の「国際宇宙ステーション+スペースシャトル」ドッキング体を眺めた。

 イリジウムのほうは、19:28:55頃と19:29:52頃に、38号と77号が相次いで天頂やや東南東付近に出現、久しぶりに閃光を見せた。その30分後、19時55分から59分頃、北西から北東の空を「国際宇宙ステーション+スペースシャトル」が通過。最初は2等星程度の明るさであったが、北東に達したあたりでマイナス2等級の明るさに、その後次第に明るさを落とし、うしかい座のあたりで地球の影に入って見えなくなった。

 わずか30分あまりのうちに最も明るい人工天体3機を眺めることができて満足満足。



ラーメン屋の閉店に驚く

 昼に馴染みのラーメン屋に行ったところ、なんと「4/16をもって閉店しました」の貼り紙あり。先週日曜日に息子と食べに行った時は特に変わったところもなく、まして閉店の予告など全く見当たらなかった。このラーメン屋、平日であれば、大盛り醤油ラーメンにライスがついて550円、コーヒーが無料で飲めるサービスもあった。いったいどうしたというのだろうか。