じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] ハナミズキ。背景は半田山の新緑。右は昨年11/30に撮影した同じ木の写真。



4月20日(金)

【思ったこと】
_10420(金)[一般]文化の多様性と「ファストフード化」

 4/20の朝日新聞・文化欄で青木保・政策研究大学院大学教授が、「『文化の多様性』の危機」という興味深い論考を記されていた。

 青木氏は冒頭で、ウォン・力ーウァイ監督の新作「花様年華」やタリバーンによるバーミヤンの大仏破壊などを引き合いに出しながら
人類の育んだ文化には、どのように些細なものであれ、人間の心の叫びが封じ込められている。「文化の多様性」をいま尊重せよ、と願うのはそのためだ。
と強調された。昨年の7月に開かれた沖縄のサミット会議で「文化の多様性」の擁護が決議文に盛り込まれたこと、国連の教育・科学・文化機関であるユネスコが新世紀に向けて「文化の多様性」をその最大目標の一つに掲げている点などを挙げて、多様性の大切さを説いておられた。

 ところが、その文化の多様性が脅威にさらされている。青木氏によれば、それは
  • 宗教的過激主義による脅威。世界各地にみられる異文化拒否と他者排斥を声高に主張する自文化・自民族中心主義や全体主義的イデオロギーの激しい動きなどが含まれる。
  • グローバリゼーションのかけ声の下に急速に世界を席巻しつつある「ファストフード化」の波。単に食品のことだけでなく、文化の簡易化・単純化と画一化のことを指す。
という2つに集約できるという。

 最近この日記でも何度か取り上げているが、土着英語至上主義などは、ある意味では言語における簡易化、単純化、画一化を示しているようにも思える。Windows一辺倒のパソコンも同様だ。もっとも、日本が一方的な被害者というわけでもない。青木氏が挙げておられるように、日本発の「回転寿司」、「ラーメン」、「牛丼」、「ポケモン」などがグローバルなファストフード文化の一部として逆に欧米世界を「蝕んで」いる場合もある。

 青木氏の論考の後半では「マクドナルド理論」への言及があった。これは、「マクドナルド店のある任意の二国は戦争をしない」というもの。そういや北京にもマクドナルドの店があった(こちらの写真7を参照)。ということは、台湾問題でどう対立しても、米中両国のあいだでは決して戦争は起こらないということになるのか。

 青木氏は最後に、
.....世界中どこでも「同じ」にしてしまうグローバル化の激風は、人間の生活文化をマニュアル化し人間存在そのものさえ機械化する。
.....21世紀というのに、一方で偏狭な過激主義、他方に非人間的な文化画一主義。その先にあるのは限りなく深い虚無の世界である。
と結んでおられた。

 以上、青木氏の論考を私なりにまとめてみたが、新聞記事の範囲では、多様性を尊重する必要性がいまひとつ分からなかった。「人間の生活文化をマニュアル化し人間存在そのものさえ機械化する」ことも「偏狭な過激主義、他方に非人間的な文化画一主義」もいずれも恐ろしいことには違いないが、必ずしもグローバル化を根本原因とするものではないように思った。



 青木氏の論点が分かりにくかったのは、おそらく、世界レベルでの文化の多様性の意義と、国や社会の内部での価値観の多様性の意義を、短い紙面の中で包括的に論じようとされたことにあったのではないかと思う。

 例えば、欧米文化に対して少数民族古来の文化を守れと主張することは、世界レベルでは文化の多様性を守れという議論につながる。ところが、その民族が大半を占める国家内で自文化・自民族中心主義を唱え続ければ、結果的に非人間的な文化画一主義をもたらしかねない恐れがある。

 極端な例かもしれないが、もし、右翼の街宣車が国連本部の周りで軍歌を流し続けたとすれば、これはある意味では文化の多様性を強調する運動になるかもしれない。しかし日本の都市内で通行人が会話できないほどの大音響で同じ行為を繰り返すことは、社会の内部での価値観の多様性を否定することにつながる。

 タリバーンによるバーミヤンの大仏破壊は、あくまで国の内部での「非人間的な文化画一主義」である。タリバーンは決してイスラム原理主義のグローバル化を求めて世界征服に乗り出しているわけではあるまい。タリバーンの行為が批判されるべき点は、自国内における価値観の多様性を否定したことにあるのだ。ところが、青木氏は
こうした文化と人間の破壊は、それが地球のどこで行われようと、真のグローバルな問題として受けとめる必要がある。
として、この面では“「価値観の多様化を認めろ」という価値観”のグローバル化を推奨しておられる。よく読めば論点は一貫しておられるのだが、同じ文章の中で「グローバル」が肯定的にも否定的にも用いられていることが、新聞読者には混乱を与える恐れがあるように思った。

 では、結局のところ、多様性は何のために必要なのか。昨年12/19の日記に記したように、生物の適応に関しては、
  • 単なるバラバラではない。同じ物があった上での多様性
  • 多様性によって強くなる
ことを前提に、画一性・均一性よりも多様性のほうが遙かに強いパワーをもっていることが理解できる。しかしそのアナロジーとして語られるだけではまだまだ不十分。文化の多様性を擁護する意義について、もう少し説得力のある議論が必要になってくるのではないかと思った。

【ちょっと思ったこと】

仕事か妻の介護か、という選択

 4/21の朝6時台のNHK「おはよう日本」によれば、北海道仁木町の藤田清司・町長が卵巣ガンにかかった妻の介護のために任期半ばで退職されたという。激務の町長職では十分な介護が出来ない。インタビューの中で藤田氏は「町長の代わりは居るが、妻にとっては私の代わりは居ない」という答えておられたが、自分自身が同じ境遇に陥った場合どのような選択をするだろうか。

 この問題、たぶん一般論としては論じられない。年齢、家族関係、仕事内容、収入などによって、選択の道もいろいろと変わってくるのではないかと思う。
  • 藤田氏の場合は、一般職で言えばすでに定年を迎えられているお歳かと拝察された。選挙で町政を委託されている最中とはいえ、交代可能な職務であるならば、仕事を優先しなければならない必然性は無い。
  • もし、20歳代〜50歳代であったとすると、いくら介護が大切と言っても、現実に収入を得るために仕事を続けなければならない事情がある。技能を身につけている人であれば、介護しやすい環境に職場を変えるということも可能であろうが、それができない場合も多い。配偶者ばかりでなく、親の介護や子育てのしがらみで思うように動けない場合もある。
 けっきょくのところ、藤田氏の選択はごく自然で当然であるように思われる。とすると、なぜそこにニュース的な価値があったのだろうか。
  • 仕事などを理由に安易に介護施設に頼り家族を大切にする心が失われつつある時代にあって、それに一石を投じるため。
  • 町長という名誉な仕事をなげうって妻の介護を優先させたことへの称賛
  • 「どうしてこんなに頑張っているんだろ?」の問いに対して、必ずしも「会社のため」、「社会のため」ばかりが人生ではないことを示すため
これは、伝える側よりも聴き手側の受けとめ方にかかっているのかもしれない。