じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
イチョウ(オスの木)の花。イチョウは英語でGinkgoというが、これは「銀杏(ギンナン→ギンキョウ)」の音読み「Ginkyo」を「Ginkgo」と誤記したためだと言われる。「銀行の花」はこうして生まれた。 |
【思ったこと】 _10416(月)[心理]象牙の塔と現場心理学(11)時刻表と学術書の違い(続き) 昨日の日記で 駅の売店や本屋で売っている時刻表は、なぜ学術書とは言えないのだろうか。時刻表には意外性は無いが、確実性は絶対に必要だ。また実用性は抜群である。乗り換え案内と違って、多様なニーズに応えられる価値を持っている。と書いた。時刻表を取り上げたのは、その前段で、乗客のニーズによって実用的価値が決まる「乗り換え案内」と対比させるためだったのだが、よく考えてみると、もっと深い意味があることに気がついた。 ここでいう時刻表とは、単に「JRや他の私鉄、航空会社などが発表したダイヤをそのまま転載にしたもの」ではなく、ダイヤグラムの作成過程を含むものとする。理科年表や天文年鑑に掲載されている各種の予報数値表と違うのは、あくまで人間の創作物であるということだ。月齢や皆既日食の予報は人間の都合で勝手に変えることができないのに対して、時刻表の数値は、輸送のニーズや採算性などに基づいて「自由に」作り替えることができる。 「時刻表はなぜ学術書ではないのか?」に対するありがちな答えとして「理論が示されていないから」が予想される。確かに時刻表のどこを見ても、ダイヤ作成の理論や、ダイヤを改正した根拠となるデータは示されていない。しかし、いま述べたように、ダイヤそれ自体は、乗客数の予測、採算性などを十分に考慮して作成されたものであり、そこにはなにがしかセオリーが介在している。そういう意味では、設計書と似たような性格をもつと考えてもよさそうだ。 ダイヤが改正された時点で古い時刻表の実用的価値は無くなる。しかし、たとえば15年前の時刻表が書棚にあれば、
今年の1月に、1985年当時の様子を伝えるポストカプセルの話題を何度か取り上げたことがあった(第1回目は1/9)。右の画像は、同じ封書に入れられていた時刻表の地図の切り抜きの一部である。九州北部に網の目のように鉄道網が張り巡らされていたことが分かる。当時はまだ国鉄の時代。この地図では他に、青函連絡船や宇高連絡船、北海道内の各種ローカル線が描かれており、単に懐かしさを与えるだけでなく、当時の交通網を知る貴重な資料にもなっている。 最初の議論に戻るが、「時刻表はなぜ学術書ではないのか?」あるいは「心理学の研究における価値は、時刻表の価値とどこが似ていてどこが違うのか」を考えることは、実験研究から事例報告、概論書などの研究価値を問い直す上で大いに意義深いものになると思う。私自身はしばらく回答を留保しておきますが、「時刻表はなぜ学術書ではないのか?」に対して、これぞと思うアイデアをお持ちの方はお互いを更新する掲示板に書き込みをいただければ幸いです。 |
【ちょっと思ったこと】
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