じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

3月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る
[今日の写真] 実験室前の花桃が満開となった。右側の写真は親の木。左はその種がこぼれて勝手に生えた子どもの木。昨年も同時期にふれたが、まさに卒業式にふさわしい景色。 [今日の写真]



3月26日(月)

【思ったこと】
_10326(月)[教育]第7回大学教育改革フォーラム(中編)放っておいてもそれなりに勉強をする大学もあるかも

 昨日の日記の続き。

 3番目の「大学における教育開発研究の立場から」を提案された阿部和厚氏は、 北大高等教育機能開発総合センターと合わせて北大・医学大学院研究科教授を併任されており、医学部における小グループ学習方式の多様な学生参加型授業を紹介された。特に印象に残ったのは、演習林、牧場、練習船などを活用したフレッシュマンセミナーであった。もっともこれは大自然に恵まれた北大ならでは実現可能な企画であるかもしれない。

 このほかにも、コアカリキュラム研究の一環としての音楽授業や、対人コミュニケーション模擬演技者養成研究もあり、さらに、リメディアル教育(物理や生物)、論文文章指導研究、TA研修など、どの面を見ても進んでおり、大いに見習うべき点があると感じた。

 もっとも、これだけ充実した教育、特に少人数の学生参加型授業を実践していくためには、教員やTAなど相当数の人的資源が必要であろうと思う。例えば、昨日の日記で紹介させていただいた井下先生の大学の場合は、教員120名に対して4000名の学部学生と450名の大学院生をかかえているという。教員1名あたりの学生が30名や40名にもなったら、そう簡単には少人数教育は行えないのではないかと思ったが、残念ながら質問をする機会を逸してしまった。




 4番目は、田中毎実・京大高等教育教授システム開発センター教授が、他の提案を一部総括するかたちで、「大学における授業研究の立場から」という提案をされた。

 田中氏はまず、今回のテーマである教育能力について、それらは具体的な教育の中で働いている力であって、分析の中で抽象化されるようなたぐいのものではないと強調された(長谷川の聞き取りによるため、不確か)。確かに、今回の提案はいずれも提案者自身の大学における実際の体験に基づくものであり、現場から切り離して抽象的に論じられるものではない。この発想は、現場(フィールド)を大切にした心理学の研究とも似通ったところがあるように思った。

 田中氏は、FDの組織化の特徴を、「学校化(伝達講習型)vs脱学校化(相互研修型)」、および「自己組織化(ボトムアップ)vs制度化(トップダウン)」という2つの軸をクロスさせ、4類型に分類された。このうち、「学校化(伝達講習型)」and「制度化型(トップダウン)」で特徴づけられるものをI型と呼ぶ。I型の場合は、参加動機は他動的であり、達成効果は啓蒙的、組織化方式は操作可能で効率的、かつマニュアル化可能で均質なプログラムという特徴を有する。いっぽう、「脱学校化(相互研修型)」and「自己組織化(ボトムアップ)で特徴づけられるものはIII型と呼ばれ、こちらのほうは参加動機は自発的、達成効果は自己開発、組織化方式においては、組織化が一部に偏りがちで、マニュアル化不可能、操作不可能で非効率という特徴がある。京大はもとより、今日の国立大の多くがこのI型とIII型を同時に達成しようとすることによる矛盾に苦しみ、それなりの解決法を見出しているという。

 余談だが「ボトムアップvsトップダウン」という概念は、FDのみならず、教育場面には幅広く適用することができる。例えば、最近話題の「奉仕活動の義務化」はトップダウン、子どもたちをプログラムの企画段階から参画させるような取組や、指図を受けずに行われるボランティア活動はボトムアップと考えることができるだろう。

 もう1つ、京大のセンターで行ってきた公開実験授業プロジェクトや授業参観プロジェクトに関して興味深い話を伺った。公開実験授業は、5年間で100回以上実施されてきたが、参加者がきわめて少ないところに1つの問題があった。またより本質的な問題として
  • 第一期では、授業者の「懺悔」と他の参加者の「儀式的慰撫」
  • 授業を客観的に記述するフィールドワーカーと主観的に記述するフィールドワーカーを設定した第二期では、常連の討議密度が増加するにつれて、検討会のマンネリ化と自閉化が進む。一時的参加者(「一見さん」)にはあまり期待できない。
 平成12年度から実施された授業参観プロジェクトの場合は、京大全教員のうち60名以上から受諾の申込があったという。このプロジェクトは今後も生産的な未来が予測されるというが、京大の全教員から見ればまだまだ一割にも達しない。相互研修のネットワーク作りが今後の課題となりそうだ。

 フォーラム終了後の懇親会で田中氏にも直接申し上げたが、じつは私は、京大ではあまり綿密な授業改善は必要無いのではないか、などと思うところがある。そもそも私自身が京大の学部学生として在学していた頃は、年に3回しか講義の無かった論○学の授業もあれば、手紙を書いただけで「優」をくれた数学の教授もおられた、専門科目のほうでも履修登録をするだけで「優」をくれる授業があり、そのおかげで私の学部の成績証明書にはやたら「○文学演習」の取得単位が目立っている。ま、自分のことは別として、とにかく京大の学生は放っておいてもそれなりに勉強をする。出席や「厳格な成績評価」などで縛らず、好き勝手に本でも読ませておいたほうが、ユニークが研究者が育つのではなかろうか。そう言えば、昔、何かの記念行事で湯川秀樹先生や桑原武夫先生の講演を聴いたことがあったが、どちらもボソボソとしゃべるばかりで、殆ど聞き取れなかった。京大の教員などは、授業がヘタでロクに聞き取れないほうが有難味があるのだ。

 もっとも最近では京大でも基礎学力の低下、あるいは、難しい授業に食らいつかずあっさりと放棄してしまう学生が増えてきたとか聞く。だからこそ、田中教授やセンターの先生方のご努力が光る時代となってきたのかもしれない。

 この連載はもう一回続く。次回は、今年度に参加した諸研修を含めて、全体的な感想を述べることにしたい。
【ちょっと思ったこと】

過去日記と考えが変わった時

 4年近くWeb日記を書き続けていると、以前に書いた時から考えが変わってくることがある。これは当然のことであって、そもそも何も変わらないとしたら「じぶん」を「更新」したことにはならない。

 この4年余りの間で、いちばん大きく変わったことを挙げろと言われれば、おそらく英語教育についての考えだろう。、『「英文法」を疑う ゼロから考える単語のしくみ』(松井力也、講談社現代新書 ISBN4-06-149444-9)、その元となる『にっぽん再鎖国論 〜ぼくらに英語はわからない〜』(岩谷宏、1982年、ロッキング・オン社)、そして最近読んだ鈴木孝夫氏の著作(『英語はいらない!?』、PHP新書、2001年;『日本人はなぜ英語ができないか』、岩波新書;ほか何冊か読書中)などを拝読することによって、英語教育についての私の考えは大きく変わった。例えばこちらの連載の中で
英語を母国語とする留学生との交流場面を増やすとか、英語圏への短期留学を単位に認定するというように、多面的な体験を評価するシステムを導入することが必要だ。
と書いたが、鈴木孝夫氏の影響を受け、現時点ではむしろ近隣諸国との交流機会を増やすことのほうが大切ではないかと考えるようになった。

 このほか、大学教育改革についても、この一年間に東京八王子の大学セミナー・ハウスで2回、他に神戸大、京都大(本日も連載中)、あるいは自分の大学内での研修会や講演会への参加を重ねる中で、ずいぶんと変わってきた部分がある。この話は、上記連載「第7回大学教育改革フォーラム」の最終回で別途記す予定である。

 過去日記の記述と考えが変わった時はどうするか。人によってはこっそり削除、あるいは修正する方もあるかと思うが、私はむしろ、誤植の訂正を除いてできる限り原文を保持し、「どのように変わってきたか」、「何に影響を受けて変わってきたのか」という流れを示すことのほうが意義があるのではないかと考えている。

 過去日記をそのまま残した場合の問題点としては、ロボット検索などで引っかかった部分がそのまま「現在の長谷川の考え」として紹介されてしまうことだ。特に私の場合は、一日1ファイルを原則としているので、前後の記述と何の脈絡もなく、Googleなどのキャッシュに残ってしまう場合がある。

 1つの解決策として、「過去の記述の背景色を変えることで現在の考えとの違いを示す」という方法を検討している。例えば、現在著しく考えが変わってしまった場合は
AはBである。CはDである。EはFである。GはHである。
というように、背景を黒っぽくすることだ。また、考えは一貫しているがその後いっそう深められた場合は、
AはBである。CはDである。EはFである。GはHである。
というように、やや黄色っぽい色に変える。

 私の日記は、1997年12月の時点から、テーブルタグ<TABLE BORDER=3>の中に本文を埋め込む形で記述しているので、背景色は<td BGCOLOR="#888888">というように色指定をするだけで容易に変更できるメリットがある。まだ実行はしていないが、4周年を迎える前までには何とかしたいと思っている。