じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

3月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る
[今日の写真] 京都府立植物園で見つけた沈丁花の珍種。葉っぱが無いのが不思議。「アカノナミツマク」という表示があったが、詳しいことは分からない。

※[3/27追記]掲示板で、ふくはらさんより「アカハナミツマタ」ではないかというご指摘を受けた。看板の文字がかすれていて正確に読みとれなかったが、「ミツマク」はどうも変だと思っていた。「ミツマタ」ってジンチョウゲ科なんですね。どうもありがとうございました。



3月25日(日)

【思ったこと】
_10325(日)[教育]第7回大学教育改革フォーラム(前編)
[写真]  3月24日午後、京都大学楽友会館で「第7回大学教育改革フォーラム」が開催された。会場には、北海道から鹿児島までのFD関連者が多数集まった。大学教育改革への関心の高さの表れと言えよう。

 フォーラムでは長尾眞・京大総長(写真左)の挨拶(実質基調講演?)と、藤岡完治・京大高等教育教授システム開発センター教授の問題提起に引き続き、4名のパネリストから
  1. カリキュラム研究の立場から(安彦忠彦・名大大学院教育発達科学研究科長)
  2. 学生による授業評価研究の立場から(井下理・慶大総合政策学部教授)
  3. 大学における教育開発研究の立場から(阿部和厚・北大高等教育機能開発総合センター教授)
  4. 大学における授業研究の立場から(田中毎実・京大高等教育教授システム開発センター教授)
という演題で20分程度の提案があった。藤岡氏の問題提起によれば、上記の4つの演題は、plan(カリキュラム)→do(授業研究)→see(授業評価)→develop(教育開発)に関係しているという。



 1番目「カリキュラム研究の立場から」の提案者・安彦教授は、カリキュラム学会代表理事もつとめておられる。カリキュラムと言うと、どちらかと言えば小中高校が中心となるが、大学のカリキュラムももちろん検討対象には含まれている。また、カリキュラムのもともとの由来は、英国・グラスゴー大学で19世紀に使われたのが最初だという。

 ご提案では、
  1. 大学教員の手によるカリキュラム開発の必要性
  2. 大学教員のカリキュラム開発能力の現状
  3. 大学教員のカリキュラム開発能力をどう育てるか
という3点が報告された。このうち2.では、昨今話題の補習教育、高校までの固定観念くだきのほか、求められる学生像の明確さが強調された。大学進学者が少なかった時代は、大学教員はもっぱら自分の後継者づくりを念頭に教育をすればよかったが、今はそういう時代ではない。

 3.のカリキュラム開発に関連して、Laska(1988)の「New Paradigm for teaching and curriculum.」の4類型が紹介された。

 
学習目標
必修 選択
教授の
類型
検証可能 Mastery curriculum Extension curriculum
検証不能 Development curriculum Personal curriculum
 この「検証可能」というのは、「到達度がテストなどで測れるもの」というご説明だったので、「検証不可能」の場合には、それをどう成績評価に反映させるのか、例えばGPAとか選択科目取得資格などにどう反映させるのか、と質問させていただいた。この場合も何らかの形で多様に評価がなされるとのお答えだったが、細かいことは時間の関係で伺うことができなかった。このほか、「The cubic curriculum」というものもあり、こちらでは、科目と目的(例えばaesthetic、socialiczation...)と行動(tell、discover...)という3次元の組合せに基づいて(聞き取りのため一部不確か)、実際のカリキュラムが構成されるという。



 2番目の井下理氏による「学生による授業評価研究の立場から」では、まず、学生が授業評価をすることに関して、「レストランのシェフ(教員)とお客(学生)」の比喩が披露された。その基本は、お客にはレストランを評価する権利があり、シェフはそれに応える美味しい料理を作る義務があるという発想ではなかったかと思う。もっとも、この比喩には多少欠陥があるようだ。フロアからの質問にもあったが、実際の授業評価では学生にかなりの回答負担がかかる。レストランで言えば、来店のたびにアンケートを書かせるようなところだ。なお、回答負担の問題や、授業評価の時期などについては、他にも何件か意見や質問が寄せられた。

 井下氏はさらに、御自分の大学の活用事例を挙げながら、授業評価システムから見えるものや、個別教員の教育力について論じられた。なお、井下氏の大学の場合は、授業評価の趣旨と目的は
  1. 授業改善のため
  2. 教授技能向上のため
  3. 学習意欲の喚起と向上
  4. 教育理念の実現のため
という4点であり、
  1. 人事考課に用いない
  2. 個別の結果公表をしない
という2点が導入時の2大原則になっているという。時間の関係で質問できなかったが、教育業績評価との関係についてもう少し詳しく伺いたかった。

 井下氏のご提案に対しては参加者から特に強い関心が寄せられ、多くの質問や意見が出された。記憶に残ったものをいくつか挙げると
  1. 授業評価アンケートは普通、学期末に行われるがそれでよいか。
  2. 授業におけるちょっとした問題は口に出しても言えるはずだ。「書かせれば指摘するが、口に出して言えない」という習慣には問題がある。
  3. 回答者の匿名性の問題(例えば、回答する学生に独自の回答番号を発行する方式、Webによる回答方式の場合など...)
  4. ティチング・ポートフォーリオ(授業実施報告書など)の問題
時間が無くなったので明日に続く。
【ちょっと思ったこと】

他人任せの文献収集は学者として失格

 数日前、「○○心理学に関する文献セット」なるカタログがダイレクトメイルで送られてきた。カタログには各テーマ別に8篇から15篇のリポートのタイトル(英文)だけがリストアップされているが、著者名も出典も記されていない。そして驚くべきことに、各セットの価格は1篇あたり5000〜6000円、1頁あたり500円前後、1セットあたり5〜8万円、とかなり高額になっている。

 この種のダイレクトメイルは以前にも何度か送りつけられているが、全くその意図がくみ取れない。大学の研究者の中に、著者も出典も分からないような文献をタイトルだけに引きずられて買い求めようとする者が居るとは到底信じられない。もちろん、外国から文献複写を取り寄せる場合には、複写費や郵送費を含めて1篇あたり数千円の経費がかかることもあるが、国立大の場合は通常その手続を図書館で代行しており、法外な料金を支払うことはありえない。またその場合も、あらかじめ教員側で周到な文献検索を行い、著者名や出典を確認したうえで申し込むはずだ。業者丸抱えで文献収集を依頼するなどということは学者の風上にもおけない愚行である。

 しかし、このような業者が現に存在し、ダイレクトメイルを送りつけてくるということは、それに見合う利益をどこかであげていることに他ならない。とりあえず思いつくのは、何らかの裏金づくりであろう。大学よりもむしろ、民間企業、政治団体などがこのシステムを悪用していないかどうか、関係当局はもとより、組織内の人間もマスコミももっと目を光らせていく必要があるかと思う。

 余談だが、最近は大学の図書館で、印刷された書籍・雑誌に加えて、CD-ROM媒体やネット利用によるデータベース利用のためにかなりの予算をつぎ込むようになった。手元に何も資料は無いが、安いもので数十万円、高いものになると数百万円のレベルになる。この種のデータベースは構築に人的コストがかかる割に購入者の数がきわめて限られており、高額にならざるをえないことは理解できるが、一番の問題は、競争原理がはたらかないために、業者側の言い値と若干の値引き交渉だけで価格が決められてしまうことにある。昨今は大学の自己評価、相互評価、外部評価などが活発に行われるようになってきているが、これらの評価では単に研究教育活動の評価ばかりでなく、こうした、有料データベースについて、予算が適切に執行されているかどうか、また適切に活用されているかどうかについてもきっちりと監視していく必要があるように思う。



「万歩計」も商品名だった

[写真]  3/19の日記で、ジェットコースターの商標権について書いたが、話のきっかけとなったATOK14の変換で、もうひとつ「万歩計」を変換した時に「《商標名》」の警告が出ることに気づいた。このところますます体重増加の傾向にある私としては万歩計の着用は欠かせないものになっているが、商標名になっているとはまことに意外だった。正規の万歩計を利用している人はどのぐらいおられるのだろうか。

 ちなみに私が最近愛用しているのは、息子から譲り受けた伊能忠敬の歩数計。写真は「ガンバレ」となっているが、怠けると「コレカラダ」という悲しい顔になる。逆にたくさん歩くと「ヨシヨシ」というにこやかな顔になる。累積歩数で日本全国を「調査」するという設定になっており、そこそこ励みになる。初期の「たまごっち」では、ちゃんと世話をしないとペットが死んでしまうというネガティブな結果が設定されていたが、ここでは常にポジティブな結果しか随伴しないようだ。もっともそれが裏目で怠けてしまう恐れもある。

[※3/26追記]こちらに、主要商品名と商標権者の一覧表があった。たいへん役に立つ。このページで気づいたのだが、森首相はセイロガンを飲んで首脳会談にのぞむべきではなかったかなあ。