じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] 世田谷線、若林付近。私が子供の頃に走っていた旧型車両に代わって、赤、青、黄などカラフルな新型車両が登場していた。若林駅のホーム、ベンチ、旧駅舎(子供の頃は、玉電の駅にも改札口や売店があった)などもこの1〜3月の間にすべて取り壊され、現在改装工事が進められている。



3月11日(日)

【思ったこと】
_10311(日)[英語]21世紀の英語教育を素人なりに考える(3)英語教育論における割引と割増の効果

 『英語はいらない!?』(鈴木孝夫、PHP新書、2001年)を読了。3/9の日記で予告したように、鈴木氏の著作について近く私なりの考えをまとめてみたいと思っているが、それに先だって、この種の英語教育論を読む時に、本文自体のロジックとは別に、その説得性を高める割増要因、あるいは割引要因としてどういうものがあるのか少し考えてみた。

 例えば、ある匿名投稿者が英語教育不要論を展開したとする。そのロジックには納得できる点が多々あるとして、読者はどういう反応を示すだろうか。もしその投稿者が英語の入試に何度も失敗してフリーライターに転身した人であったとすると、少なくとも一部の読者は、

ロクに英語の勉強をしなかったヤツが自分の弱点を正当化するために自分勝手なことを言っている

と受け止めるかもしれない。ところが、全く同じ文章が、勤続20年のベテラン英語教師によって書かれたと分かると、

これだけ豊富な経験を持った人があえて「不要」と言うからにはよほどの根拠があるに違いない。

と受け止めるかもしれない。そういう点では、英語の名詞は「もの」、日本語の名詞は「こと」で引用した『「英文法」を疑う ゼロから考える単語のしくみ』(講談社現代新書 ISBN4-06-149444-9)の著者の松井力也氏は、大いに得をしていると言える。というのは、著者は公立高校の現役の英語教師であるからだ。英語の先生に「英文法を疑う」などと言われてしまうと「そりゃ大変だ。本当だろうか。」と、割増して聞こう(読もう)という気になるはずだ。

 同じことは「英語教育重視論」についても言える。大学の英語教育論議などで、英語教育担当の教員が重視論を唱えても、どうせ自分たちのポストを増やしたいだけだろうなどと割引されてしまうところがある。利害関係の無い日本文学の教員から重視論が出てくると、相当に割増されることになる。




 以上は読み手の受け止め方についての話題であったが、もっと根本的に、不要論を含めた英語教育改革論議を最も生産的に進めるには、どういう場がふさわしいかという問題がある。

 例えば、旧教養部時代の大学の英語教育のあり方は、教養部の英語担当教員が中心となって議論されてきた。しかし、そういう立場の人々のあいだからは、
  • 英文学よりも実用英語重視。
  • 各専攻の教員が専門英語だけ教えればよい。
  • 日本人よりもネイティブスピーカーを雇用したほうがよい。
  • 講義よりも、マルチメディア利用、留学生との交流、短期留学などの機会をふやすべきだ。
  • 大学での英語基礎教育は不要。入試の際に英語のできる学生をとればよい。
というような主張はなかなか起こりにくいし、承認されにくい事情がある。自分たちの役割を否定してしまうような議論は、内側からは起こりにくいものだからだ(心理学で言えば、実験心理学の学会で実験的方法の限界を論じるような議論が起こりにくいことと同様)。

 元の話に戻るが、巻末の略歴を拝見したところ、鈴木孝夫氏は
1926年生まれで慶応義塾医学部予科、同大学文学部英文科卒業。イリノイ大学、イェール大学客員教授、フランス高等社会科学研究院客員教授などを歴任.....
とある。こういう方が、「英語はいらない」(←本文を読めば分かるが、鈴木氏は日本語教育だけすればよいと主張されているわけではない。念のため)などという本を著されると、割増効果が出てくるのは確実だ。逆に言えば、割増分に囚われない読み方が必要。つまり「鈴木先生が言ってられるのだから本当なんだろう」ではなく、あくまで「この主張は何に依拠しているか」をクリティカルな目で捉え直す姿勢が求められると思う。
【ちょっと思ったこと】

スギ花粉と低周波公害

 首都圏のニュースによれば、3/11はスギ花粉の飛散が非常に多かったようだ。幸いにして、私個人はこれといった症状を体験したことが一度もないが、アレルギー体質の方にとってはさぞかし辛い毎日が続くのではないかと拝察される。

 正確な知識は何1つ持ち合わせていないが、昔の日本ではこれほど大規模な花粉症被害は起こらなかったらしい。針葉樹の植林のほか、生まれてからの生活環境や食習慣も影響していると聞いたことがあるが、どんなものだろうか。また、花粉症はある閾値レベルを超えると発症するため、若いとき大丈夫だったからと言って生涯安泰というわけでもないらしい。

 このことに関連して、最近マスコミでも取り上げられるようになってきた「低周波公害」のことを思い出した。室内の冷蔵庫のほか、隣に建てられたビルのエアコン設備やエレベーター設備、近隣の工場からの低い機械音などが気になって、不眠や体調異常を訴える人たちが増えているという。

 花粉症の場合は空気清浄機つきの密室に籠もればとりあえず症状は軽快するが、低周波のほうは、家の壁を突き破って体全体に振動を伝える。雨戸を開けたほうが(普通の雑音にマスクされて)気にならなくなるというし、もちろん耳栓で防ぐわけにはいかない。病院によっては、神経症として処理されてしまうこともあるという。

 花粉症と低周波公害に共通して言えるのは、深刻な症状を訴える人から何も感じない人まで著しい個体差があるということだろう。過半数の人が共通した被害を訴える場合には行政としても対応しやすいが、数%以下とか、個人の中でも受けるストレスに変動があるような場合にはなかなか対応してくれない。行政へのイライラがますますストレスを増やすことにもつながる。

 こういう場合はどうすればよいのだろうか。発生源を無くしてしまったほうがよいのか、それとも、被害を訴える人たちに脱感作訓練(desensitization)サービスを実施したほうがよいのか、難しいところだ。