じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

3月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る
[今日の写真] 娘の小学校卒業まであと一週間となった。赤いランドセルを背負って登校するのもあとわずか。父兄として小学校に足を運ぶこともこれで無くなる。



3月9日(金)

【思ったこと】
_10309(金)[英語]21世紀の英語教育を素人なりに考える(2)「英語で苦労はさせたくない」か「英語はいらない」か

 夕食時にNHK「特報首都圏:英語で苦労はさせたくない」を見た。最近、幼児向けの英会話教室がますます盛況になっているという。しかも、親の要望を反映してますます低年齢化が進む。教室によっては2歳以下、さらには0歳からの教育を行っているところまであるという。

 番組ではまた、英語で行う教育を週に20時間以上実施している小学校も紹介されていた。「20時間」というのは、国語と社会以外のすべての科目を英語で行っているとの意味。

 ゲストとして出演されたマーシャ・クラッカワー先生は、遊びとして取り入れることには賛成だが、勉強とか教育という話になると苦労しますよ、かつての基礎英語の講師・安田一郎先生の言葉を引用して「英語はhow to sayよりもwhat to sayだ」と強調しておられた。

 以上が番組の概略であるが、第一印象としては「なんか違うんじゃないかなあ」という感じだ。この日はたまたま、岡山空港での搭乗待ちの時に『英語はいらない!?』(鈴木孝夫、PHP新書、2001年)を読んでいたこともあって、特にそう強く感じたのかもしれない。

 2年ほどまえに話題になった『日本人はなぜ英語ができないか』を含めて、鈴木孝夫氏の著作について近く私なりの考えをまとめたいと思っているところだが、英語教育をめぐっては、少なくとも以下の視点に分けて考えてみる必要があると思う。
  1. ネイティブな英語と同様の英語力をつけさせることが必要であるという前提のもとでの議論:
    1. 現行の英語教育の教授内容は概ね妥当であるという前提のもとで学校教育の方法を再検討する視点。例えば、文法ミスや発音ミスなどの言い間違いを矯正しすぎるのではないかとか、授業時間数をもっと増やすべきだとか、外国人教師を多数雇用すべきだといった議論。
    2. ネイティブな英語と同様の英語力をつけさせるためには、例えば英語の名詞は「もの」、日本語の名詞は「こと」という発想のように、日本語と英語における事物のとらえ方の根本的な違いを理解させる必要があるという議論。これをおざなりにして、「英語ではこう言います」とか「日本人の英語はここがダメです」というのを個別的に何百何千と指摘しても、(少なくとも一般人には)十分な英語力は身につかないと考える。
  2. 国際社会で生き抜くために英語は必要であると認めつつも、日本人全部がネイティブな英語を話す必要はないとする議論。たとえば、義務教育のレベルでは日本型英語(鈴木氏の言葉を借りれば「イングリック」、私が前に使った呼称としては「Japenglish」。ちなみに「Japlish」という言葉もあるがかなりニュアンスが違う)で「自信をもって話す」習慣を身につけさせるにとどめ、日本型英語の特徴をネイティブな英語使用者に理解させて交流をはかるという発想だ。コミュニケーションがうまくいかない責任をすべて日本人が負うのではなく、英語使用者側にもそれなりの負担を求めようというもの。
  3. 根本的に、「英語は要らない」という議論。日本国民の義務という形で英語教育にこれほど多くの時間をかけるのは勿体ない。アカデミック能力としての複数言語習得の意義は認めるが、そのためには、英語ばかりを偏重せず、アジア諸国の言語、時には発展途上地域の少数民族の言語も同じように理解する。国際交流を促進させるために国民全体をペラペラにする必要はない。それよりも、多言語ジャーナルの発刊、通訳の養成、翻訳産業の振興につとめるべきだという議論。
このような視点を分けずに、早期教育や大学教育における英語教育のあり方を論じても議論はすれ違いに終わってしまうだろう。

 ここでもういちど、英語で行う教育を週に20時間以上実施している小学校の話に戻るが、この小学校では、これまでの反省から、茶道、華道、琴など日本の伝統文化を学ぶ授業を増やしていると聞いた。しかし、これは反省の方向が少し違うのではないかと思う。いわばカルチャー教室のような形で日本の伝統文化を紹介しても、身につくのは断片的知識だけだろう。ホームステイ先での話題は豊富になるだろうが、それは観光バスのガイドさんが持ち歌のリパートリーを増やすのと同じ程度のものだ。英語の名詞は「もの」、日本語の名詞は「こと」”というような言語そのものの特質を理解するためには、やはり、日本語をちゃんと読み、ちゃんと書くという力を養成することが先決ではないだろうか。
【ちょっと思ったこと】

渋谷人は左側通行がお好き?

 小雪の舞う中、午後の飛行機で東京へ。山手線渋谷駅中央口から東横線方面への階段を下りるとき、人の流れが左側通行になっていることに気づいた。面白いことに階段の登り口の足下には右側通行を促す矢印のタイルが入っていた。左側の流れは文化会館方面までずっと一緒だった。

 渡り廊下(2階連絡通路)から渋谷駅東口の交差点(宮益坂方面)を眺めると、交差点を渡る人たちまでもが横断歩道の左側を通行していた。まったく偶然のことなのか。渋谷駅にローカルな現象なのだろうか(例えば、東横線の改札口から山手線に乗車する人数が多く、少しでも近道をするために階段の左側を歩くとか.....)。それとも、一般論として、他の人とすれ違う時に、心臓から遠い右肩で離合したがるためだろうか。日曜日に神田や三田方面でさらに観察してみたいと思っている。