じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] 造られるもの(奥)と、壊されるもの(手前)。奥の建物は大学院博士課程の研究施設と放送大学施設(3/5撮影)。手前の旧日本軍施設は学生の課外活動施設として利用されてきたが、建物完成後に取り壊されることになっている。屋根に雪がかぶるのもこれが最後か。



3月5日(月)

【思ったこと】
_10305(月)[心理]象牙の塔と現場心理学(2)「現場」とは何か

 昨日の日記の続き。『現場心理学の発想』(やまだようこ編、 1997、 新曜社、ISBN4-7885-0589-4)をネタ本とした連載の2回目。今回は「現場(フィールド)心理学」について、もう少し細かく特徴を探っていきたいと思う。

 まず、この本は全部で10章から構成されている。まえがきによれば、10章は、第1部の「ふれてみよう現場心理学」、第2部の「多重を生きる現場心理学」、第3部の「かかわりながら知る現場心理学」という三部構成になっているが、現場心理学の発想の原典を知るためには、むしろ最後の10章から読み始めたほうが分かりやすいのではないかと思う。じつは第10章は、章末にも記されているように、1986年3月刊行の『愛知淑徳短期大学研究紀要25,31-51』に収録された、やまだ氏の論文の再掲載である。「当時は,心理学においてこのような方法論の議論を掲載する場がなかったので,やむをえず紀要論文にした時代情況があった」という。まさにepoch-making的な価値のある論文であると言えよう。

 さて、どのような学問でも、その意義や限界を問われた時には
  1. どういう問題意識に基づいて始められたものなのか。
  2. 何を対象としているのか。
  3. どういう方法を用いようとしているのか。
  4. それに取り組むことでどのような成果が期待されるのか。
というように分けて考えていく必要がある。仮に「現場心理学」を批判する場合でも、対象のとらえ方に問題があるのか、用いる分析方法に問題があるのか、といった問題ははっきり区別しておかなければならない。

 それでは、現場心理学は対象をどのように捉えようとしているのだろうか。私は次の3点が特に重要ではないかと思う。
  • 人工的な操作を加えて観察するか,ありのままの自然を観察するかの問題は,実験法と観察法の区分(大山,1973)にはなるが,これは現場の特徴を示す区分とは区別すべきであろう。つまり現場という概念は研究の行われる現象の特徴を記述する用語として限定し,方法論とは独立して考えた方がよいと思われる。したがって,「ありのまま,制御を加えない,自然」などは現場の本質的特徴ではない。[やまだ、p.164〜165]
  • 現場研究とは,日常的感覚でわかりやすい研究をするのだというわけではない。.....実感や常識で理解できるかどうかは法則の正しさを証明する基準にはならない。現場研究はわかりやすい,実感のある,日常感覚の研究をめざすのだと誤解してはならない。[やまだ、p.166〜167]
  • 現場とは「複雑多岐の要因が連関する全体的・統合的場」と定義される。これは研究の対象となる現象と研究の行われる場の特徴を象徴した用語であり,実際に研究の行われる場所そのものを指すのではない。[やまだ、p.167] ★★
 以上の引用から読みとれるように、「現場心理学」は「現場」を定義するにあたって最初から研究方法を固定していない。この点は、166頁の表3に簡潔にまとめられている。
  • 現場のもつ本質的特徴(現場を定義するための必要条件)
    • 全体的・統合的(複合的システムとして機能するので,要素化や単純な変数による分析が困難である)
    • 何が必要かわからない(要因が複雑に連関していて,アプローチすべき要因が不明である。問題を発見したり,必要な要因を探しだすこと自体が課題になる)
  • 現場のもつ副次的特徴(現場を定義するための副次的条件)
    • 一回的・個性的(現場は一回的・個性的であることが多く,その性質を生かす研究をすべきだが,広い意味で反復可能な現象として扱うこともできる)
    • 自然・ありのまま・統御がきかない(現場は自然で統御がきかないことが多いが,人工的統御を加えることもできる)
  • 現場ヘアプローチする方法論(現場を定義するための必要条件ではない)
    • 個性記述的(←→法則定立的),仮説生成的(←→仮説検証的),定性的(←→定量的)アプローチが有効であり,参与観察や聞き取り調査が多く使われるが,それに限らず現場実験やサーベイなど多様な方法が適用できる。
 「現場心理学」というと、とかく、個性記述的、仮説生成的で、参与観察や聞き取り調査を行う研究であるとの印象を受けてしまうが、以上の引用から示されるように、それらは、現場を定義するにあたっての必要条件には含まれていない点に留意しておく必要がある。

 以上、かなりの分量の引用を続けてきたが、ここで私自身の素朴な疑問をいくつか挙げておきたいと思う。
  • 「現場」は方法論と独立して定義されると記されているが、167頁の部分には次のようなくだりがある。
    【上述の★★からの続き】極端にいえば実験室の中にも現場(フィールド)は存在するし,逆に,家庭や幼稚園など日常語で現場(げんば)といわれる場所で研究をしても,「単純な要因について分析する場」であれば実験室である。またこれは相対的区分であり,あらゆる中間的現場が存在する。
    ここだけを読むと、「現場(フィールド)」は、「単純な要因について分析する場」を除く場として定義されているように見える。しかし、「単純な要因について分析」というのは方法論への言及していることにほかならない。方法論と独立して定義するという前提に矛盾するのではないか。
  • ある現象が「複雑多岐の要因が連関する全体的・統合的場」であると言明するためには、要因が先に定義されていなければならない。要因が何だか分からない段階では、それらが「複雑多岐」かどうかも「連関」しているかどうかさも実証できない。研究の出発点で判断しなければならない基準に、研究を進めなければ解明できない要因が含まれていると言えないだろうか。
  • ひとくちに「複雑多岐の要因」と言っても、いろいろなレベルがある。包括的に把握できる概念もあるし、分析のレベルでいくらでも細かく分けることもできる。
    • 例えば、虹という現象は、包括的なレベルでは、「○○地方で何回観測された」というように記録することができるし、その光学的なメカニズムも解明されている。しかし、虹が生じる際の空中の水滴の分布や太陽光線の角度は複雑に連関している。
    • 将棋の駒も同様。将棋盤上の個々の駒の動かし方はきわめて単純なルールで定められているが、それぞれの駒がどのように連関して攻撃や守備に貢献しているのかということはきわめて複雑であり高性能のコンピュータでもなおフォローしきれないほどである。
 いま挙げた例はあくまで思いつき程度のものであり全く筋違いかもしれないが、疑問として提示した内容自体は分かっていただけるのではないかと思う。

 余談だが、これまでこの日記で、現象を「モノ」的に分析するか、「コト」的に捉えるかという話題を何度か取り上げてきた(例えば2000年の11/20の日記)。その区分で言うならば、この本で取り上げられている「現場(フィールド)」という概念は、限りなく「コト」に近いように思われる。とすると、あるいは、「現場(フィールド)」を記述する際には、日本語が最も適した言語であるという可能性も出てくる。
【ちょっと思ったこと】