じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
岡山は3/4の夜から風雪模様となる。3/5朝には、この時期としては珍しい雪景色となった。写真左は岡大農場方面、右は京山方面。 |
【思ったこと】 _10304(日)[心理]象牙の塔と現場心理学(1)「現場」より「現野」のほうがよかったかも 2月に連載した『象牙の塔とアクション・リサーチ』の第二部として、『現場心理学の発想』(やまだようこ編、 1997、 新曜社、ISBN4-7885-0589-4)をネタ本に「現場」について考えてみたいと思う(あくまで不定期連載の予定)。 今回はプロローグとして「現場心理学」とはどういうものか、私なりの位置づけをしておきたいと思う。 さて、初っ端からいきなりケチをつけて申し訳ないのだが、「現場心理学」というネーミングには少し無理があったのでは、という気がする。この本を開いてみればすぐに気がつくように、この本では、「現場」という言葉に原則としてすべて「フィールド」というカタカナ・ルビがふられている。その意図は、 この本で私は,さらに「現場」というカタカナ・ルビつきの用語を使っているので,それにさらに英語のfieldの意味も重ねあわせている。この一語だけで二重言語どころか,多重言語の発想を同時に併用しているわけである。[やまだ、p.19]というところにあるらしいが、「ルビつき」の効用は期待通りの成果を上げているのだろうか。
とはいえ、私が発案者に無断で造語するわけにもいかない。ここはとりあえず、ルビなしで「現場心理学」と表記し、特別に断らない限りは、フィールドという英語的意味を含むものとして今後の議論をすすめていくことにしたい。 さて、前置きが長くなってしまったが、ここでいう現場とは何か? やまだ氏によれば、 現場とは「複雑多岐の要因が連関する全体的・統合的場」と定義される。これは研究の対象となる現象と研究の行われる場の特徴を象徴した用語であり,実際に研究の行われる場所そのものを指すのではない。極端にいえば実験室の中にも現場(フィールド)は存在するし,逆に,家庭や幼稚園など日常語で現場(げんば)といわれる場所で研究をしても,「単純な要因について分析する場」であれば実験室である。またこれは相対的区分であり,あらゆる中間的現場が存在する。[やまだ、p.167]というのが定義になっているようだ。もう1つ、現場の重要な特徴を引用しておこう。 現場は,どこにでもあると言っても過言ではない。近所の本屋も喫茶店も魚屋もスーパーマーケットも現場となるし,街角に机を構えている占い屋や宗教の信者たちが集まる場所も現場となる。大学のキャンパスも現場となるし,それこそ心理学実験室も現場となる。自分の家族が暮らす家の中も現場となるし,極端には自分の身体そのものが現場となる。[伊藤哲司、p.8]伊藤氏は、「極端には自分の身体そのものが現場となる」という事例として、病気のために動かなくなっていく自分の身体を現場として人類学的に考察した『ポディ・サイレント』(ロバート・F・マーフィー、1992、新宿書房)を挙げている。このあたり、日常用語としての「現場」とはかなり異なっている。やはり「現野」とすべきではなかったかなあ。 次回は、やまだ氏の論考を引用しながら、もう少し細かく、「現場心理学」の特徴づけを行っていく予定。 |
【ちょっと思ったこと】
ものつくり大学の謎、その後 3/2の日記で「ものつくり大学」どこが悪い?という話題を取り上げた。そのなかで 汚職というのは得をする人がいるから起こるものなのである。では、「ものつくり大学」が設立されると誰が得をするのだろうか。これがよく分からない。少子化の時代、定員割れした私立大の倒産がささやかれるこのごろである。いまどき、金儲けのために大学設立をめざす起業家は居ないだろう。では、世のため人のための設立なのか。しかしそういう高邁な識見を持つ人なら決して賄賂など贈らないはずであろう。という疑問を発した。 この大学の総長に就任予定の梅原猛氏へのインタビュー記事が3/5の朝日新聞に掲載されていたが、これを読むと、上記の謎がある程度解けてくる。
3/2の日記にも述べたように、ものつくり大学の設立主旨そのものは大いに結構。「物をつくる」生きがいは、金銭的な報酬ではなく、作るプロセスと完成にあるとするスキナーの主張にも合致している。「結果的にKSDとの関係は切れ、自由な大学ができる。どんなことがあってもいい大学にしたい。」という梅原氏のお言葉に大いに期待したい。 アフガニスタンの仏像破壊 アフガニスタンのイスラム原理主義勢力タリバーンが、バーミヤンの仏教遺跡の破壊を続けているという。タリバーンのジャマル情報相はフランスの貴社に対して「こうした像は単なる泥と石のかたまりで、壊すのは簡単だ」と語ったというが、ずいぶんヒドイことを言うものだと思う。 イスラム教と言っても、すべての宗派がこのように排他的であるとは限らない。昨年8月のパミール高原横断旅行では、パキスタン国内のタキシラ博物館、チラスの岩絵、ギルギットの磨崖仏などを見学したが、仏教遺跡の保存状態はきわめて良好であった。タキシラの博物館には、パキスタン人の家族連れもたくさん見学に来ていた。生活のためであろうが仏教遺跡周辺では現地の若者が、大理石で作った仏像などの工芸品を売りにきていた。一昨年に訪れたイランもそうだったが、彼らはみな自分の国の遺跡を国の宝として大切にしており、外国人にそれを紹介することを誇りにしているように見えた。 加藤一二三・将棋九段と大学の定年制 3/4の朝日新聞によれば、将棋の加藤一二三・九段(61)が2日、A級順位戦で森下八段(31)に勝ち、プロ入り通算1200勝を挙げた。1200勝は、大山康晴・十五世名人、中原・永世十段に次いで歴代3人目というが、勝ち数の多さはもとより、還暦を過ぎてなおA級で活躍されていることには敬意を表したい。 同じ日の別記事で、大阪大学の教員定年延長の話題が取り上げられていた。年金の支給年齢引き上げを背景に、東大や東工大に続いて阪大も定年の延長を検討しているというが、「無条件延長では活力を低下させる」という意見もあるとか。加藤九段の勝利は60歳以上でも十分に能力を発揮できることの証拠にはなりうるが、それがニュースになりうること自体、逆に例外的であるとも言える。 このところすっかり将棋の番組を見なくなってしまった。加藤九段と言えば、持ち時間を使い切ってからの一分将棋で強さを発揮することで知られていたが、今でも同じスタイルで戦っておられるのだろうか。 [※3/5追記]A級順位戦の速報は毎日新聞の記事にある。日本将棋連盟の公式サイトはこちら。 |