じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] 2/27夕刻の岡大西門周辺の風景。前期入試の直前に門柱が改修された。門柱の幅が少し狭くなったということだが、交通安全上どの程度の効果があるのかは現時点では分からない。ところで、この日の午後から、ここの風景に1つだけ重大な変化が生じた。お気づきになった方は、この写真をクリックしたときにアクセスできる掲示板に答えを書き込んでください。



2月27日(火)

【思ったこと】
_10227(火)[心理]象牙の塔とアクション・リサーチ(10)現場に関わること

 今回のテーマについては不定期連載を予定していたが、めずらしく10日連続で書き続けることになった。他に取り上げたい話題もいくつかあるので、実質月末であることと、10回目というキリのよい回数になったことを口実に、ひとまず第一部として完結させておこうと思う。第一部の最後は、教育実践場面について考えてみたいと思う。

 基礎心理学分野における実験法と、教育実践場面における実験的方法とはどこが違っているのだろうか。倫理面やバランス面など考えるべきことはいろいろあるが、私は、一番の違いは、研究者(あるいは実践者)と研究対象(あるいは教育対象)との関わり方にあるのではないかと思う。

 基礎心理学分野における実験では、実験者は、実験場面を隔離した状況のもとで研究を進める。手続さえ守るならば、実験者を取り替えても結果は変わらない。実験者自身の思い入れが影響を与えるような「実験者効果」は厳しく排除されなければならない。例えば、ネズミを実験用走路に入れる時に、正刺激の条件ではぎゅっと掴み負刺激の時は柔らかく掴むようなことがあれば、ネズミが受ける圧迫感自体が手がかりになってしまう。

 教育場面でも同じようなことはよく言われる。例えば、教師が生徒に対して何らかの期待を抱くことによって、生徒の成績が教師の期待する方向へと変化する現象はピグマリオン効果として知られている。

 しかしここで問題となるのは、実験者効果を排除することではない。もし教師の期待効果が成績向上に有効であるとするならば、それ自体も活用することのほうが意味がある。そのためには、「期待をもつ」ことが生徒との具体的な関わりの中でどういう行動として現れてくるのかを分析する必要があるが、24日の日記に記したように、単に、教師個人の教え方の包括的な有効性を検討するだけであるならば、とりあえずは曖昧なままでもよい。大いに期待をもって授業を進めればよいのである。



 ところで、実験者効果が排除されるべき実験においても、実験の成否が実験者の研究行動に影響を与えるというのは大いにあることだ。ネズミを被験体とした例をもう1つだけ挙げてみると、オペラント条件づけの実験でよく使われる装置に「スキナー箱」というのがある。箱の中にバーが取り付けられており、ネズミがこれを押すと餌ペレットが機械的に与えられる仕組みになっている。実験者は、バーの押し方と餌の与え方の関係をいろいろに変化させたり手がかりを変えたりしてデータを収集する。このスキナー箱に関して、私が学生の頃に読んだ入門書(『学習』、メドニック著 八木訳、岩波書店、1966年)に面白いマンガが引用されていた(引用元はコロンビア大学のJesterとなっている)。そこでは、スキナー箱に入れられた2匹のネズミが次のような会話をしていた。
「おい、この男を条件づけてやったぞ! 僕がこのバーを押すたびにあいつは餌をひとかけおとしてよこすんだ。」
このマンガは、「実験者がネズミを条件づけているように見えるが、じつはネズミが実験者を条件づけているのだ」というジョークとして他の本にもいろいろ紹介されている。もちろん、バーの押し方と餌の与え方の関係をいろいろに変化させる権限は実験者の側にあるのだから、実験者と被験体との関係が逆転することはあり得ない。しかし、ここで重要なのは、ネズミがバーを押すことは、やはり実験者の研究行動を強化しているという点にある。そもそもどのネズミも一度もバーを押さなかったら、実験者はネズミを被験体とした実験など続けないはずである。自分の努力に応えてくれるような結果がそこそこ得られるからこそ研究を続けるのである。

 このほか、1998年11月28日の日記で取り上げた「少年野球の監督の賞賛や叱責」の例も、教えるという行動が教えられる側からの結果によって変容する可能性を示唆している。

 要するに、教育実践場面では、「現場を隔離した地点から客観的に教授法の有効性を検証する」という立場とは別に、「自分が現場にどう関わるか、現場からのフィードバックによって自分自身の教育研究活動がどう変わっていくのか」という別の立場を考慮に入れる必要があるということだ。後者は、自分の行動を点検するという点でクリティカルシンキングの視点が要求されるし、その行動の望ましい部分をどう伸ばしどう維持するかというパフォーマンスマネジメントの技法も求められる。今後はこのあたりを探っていきたいと思う。

 さて、最初にも予告したように、連載の第一部はこれにて終了。今後はしばらく、英語教育についての種々の立場を素人なりにコメントしたり、『現場心理学の発想』(やまだようこ編, 1997, 新曜社)などの心理学の関連書をコメントしたり、「スキナーの『科学と人間行動』を読む」という連載を始めつつ、英語教育全般の問題や、タイトルに含まれていたアクションリサーチやについても引き続き不定期で考えを述べていく予定である。
【ちょっと思ったこと】

幼稚園からの英会話教育

 2/27の朝日新聞によれば、大阪狭山市は26日、4月から市内の計21の幼稚園と保育所、小学校で英会話教育を始めると発表した。自治体が就学前の幼児に一律に英会話教育を実施するのは異例であり、文部科学省幼児教育課も学習成果を注視していきたいと述べているという。

 日本語が固まっていない段階からのバイリンガル教育については、1つのコンピュータに2つのOSを入れるものだとの批判もあるが、今回の記事を読んだ限りでは、その心配はまず無さそう。なぜなら、就学前は1回30分で年間24回程度、小学校は1回45分で、1〜2年は20回、3〜4年は25回、5〜6年は30回。むしろこの程度の回数で何かが身につくものかどうか。たぶん、お遊戯かアコーディオンのひき方を習う程度で終わってしまいそうな気がする。