じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] 濃霧バージョン(2/22撮影)、2回目は岡大東西通りのサザンカ。



2月23日(金)

【思ったこと】
_10223(金)[心理]象牙の塔とアクション・リサーチ(6)実験的方法は日常生活場面から始まった

 今回は、教育活動と実験的方法の関係について考えを進めていきたいと思う。2/20の日記では、実験的方法について
実験研究だけである法則(仮説)が立証されることは決してありえない、というのが私の主張だ。できるのは、ある法則(仮説)に合致する現象が少なくとも1つ存在すること、もしくはある法則(仮説)を覆すような現象が少なくとも1つ存在することを人工的に示すことだけである
というように消極的な見方を示した。しかし、同時に、他にもいくつかできることがある点と、有効性の検証ツールとしての意義がある点を付け加えた。今回取り上げるのは、日常行動の検証ツールとしての役割についてである。

 そもそも、実験的方法はどのようにして成立したのだろうか、そして、(少なくとも心理学分野に限った場合)なぜ現実から遊離し、(少なくともある時期の、ある領域で)象牙の塔の中で「実験のための実験」が繰り返されるようになってきたのだろうか。

 結論を先に言えば、
ほんらい実験的方法というのは日常世界で何かを確かめるために使われてきた方法であり、学問的方法としての実験法はそれらを精緻化、体系化したにすぎない。
というのが私の考えだ。

 例えば、毎朝バスで通勤しているサラリーマンが、自転車と電車を組み合わせた別のルートを思いついたとする。その人が、曜日や時間帯を変えて2つの条件を比較したとしたら立派な実験的方法と言えよう。

 ここで重要なのは、単なる試行錯誤だけでは実験とは言えない点だ。こちらでも指摘したように、実験的方法では何らかのシステマティックな操作が行われなければならない。システマティックな操作を行うことには次のようなメリットがある。
  • 手間を省くことにつながる。
    これは、昨年1月に出されたセンター試験の英語問題で紹介されている「12個の玉のうち1個だけ他より重い玉がある。天秤を3回だけ使ってそれをいかにして見つけるか」というクイズを例にとって考えてみれば分かる。ただ順繰りに計ると、玉を2個ずつ選んで天秤に乗せていかなければならないので、運が悪い時には最大6回の操作を行わなければならない。システマティックな操作を行えばこれを3回に省力化することができるのである。

  • 正確な原因推測を可能にする。
    『クリティカルシンキング入門編』(ゼックミスタ・ジョンション著、宮元・道田・谷口・菊池訳、北大路書房、ISBN4-7628-2061-X、1996年)69頁からの翻案になるが、例えば
    ジンのソーダ割り、スコッチウィスキーのソーダ割り、バーボンのソーダ割を別々の日に飲んで、いずれも二日酔いになった。その人は、ソーダ水こそ二日酔いの原因であると結論をくだした。
    というエピソードがあったとする。その人が二日酔いの真の原因を確かめるには、少なくとも同じ分量のソーダ水を飲むという日を設定しなければならない。この「実験」操作によって、より正確な原因推測が可能となるのである。
 これらの例にも示されるように、もともと、実験的方法というのは、日常生活行動の有効性を検証するツールとして確立されたのではないだろうか。人類誕生以前から実験的方法なるものが確立していたわけではない。それゆえ、そもそも「実験的方法を日常生活場面に応用できるか」などというのは、物事の成り立ちを逆立ちして捉えるような議論であると言えよう。じつは、科学的な法則とか理論についても同じことが言える。機会を改めて論じることにするが、スキナーが『科学と人間行動』の第2章(13〜14頁)で行っている指摘はまことにもっともであると思う。
As Ernt Mach showed in tracing the history of the science of mechanics, the earliest laws of science were probably the rules used by craftsmen and artisans in training apprentices. The rules saved time because the experienced craftsman could teach an apprentice a variety of details in a single formula. By learning a rule the apprentice could deal with particular cases as they arose.

Machが機械についての科学を歴史的に辿りながら示したように、科学の最初の法則は職人や芸術家が徒弟の訓練に用いたルールであったようだ。ルールを用いると、経験を積んだ職人が徒弟にさまざまな細部について単一の公式で教えることができる。そのために時間の節約ができる。徒弟はルールを学ぶことによって、特定の事例について、技術が習得できたときのように対処することができる。[やや意訳。長谷川による]
 それでは、学問的方法としての実験法と、日常生活場面や実践場面における実験的方法はどこが違っているのだろうか。時間が無くなったので、とりあえず要点だけを予告しておくと、

  • 日常生活場面や実践場面で行われる実験では、再現性が保障されることが大切。ある条件、あるいは働きかけが包括的に再現できるならば、必ずしも要因に分解する必要はない。その文脈内で有効性が検証されれば十分。
  • 学問的方法としての実験法では、一般性が要求される。そのためには、実験操作の中のどの「成分」に一般性があるのか(=別の文脈でも同じ働きをするのか)を保証しなければならない。
以上を軸に、さらに考えを進めていきたいと思う。