じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] 時計台近くの水仙、濃霧バージョン(2/22撮影)。霧の風景自体は条件が揃えば一年中見られるが、水仙との取り合わせは今だけに限られる。



2月22日(木)

【思ったこと】
_10222(木)[心理]象牙の塔とアクション・リサーチ(5)無生物の世界、無生物の世界

 昨日の日記で、現実的な問題が実験的に分析しにくいことの本質的な障壁として、
  • 要因間の相互作用、相互依存がきわめて大きい。
  • 要因の中に、他の要因に能動的にかかわる存在がある。
という2点を挙げた。今日は2番目について考えてみたいと思う。

 この問題は、大風呂敷を広げて言うならば、無生物だけで構成される世界と、生物が介在する世界でどこが違うのか、を考えることにつながる。無生物の世界としては、例えば、原始時代の地球環境、月や(おそらく)火星などの世界、天体の運行、噴火や地震、(地球温暖化や森林の影響を考えないレベルでの)気象現象などを挙げることができる。生物が介在する世界は、これらの世界とどこが違っているのだろうか。私が本質的に異なると思うのは:
  1. 生物はその本質として、外界に能動的に働きかける性質をもっている。植物であれば、いっぱんには、根を張ったり茎を伸ばし、養分や水分の吸収し、光合成を行う。動物の場合は、文字通り、「動く」という行動を通じて、食物の獲得、巣作り、交尾、子育てなどをする。
  2. 外界への働きかけの度合いは、その結果によって統制される。 好都合の結果が伴った場合、植物であれば、より大きく成長し、より多くの子孫を増やす。動物の場合、個体発生レベルでは当該の行動が強化・維持され、系統発生レベルでは繁殖につながる。いっぽう、不都合な結果が伴った場合、植物であれば枯れ衰える。動物の場合は、個体発生レベルでは当該の行動が弱化され、系統発生レベルでは死に絶えていく。
もちろん、これらはあくまで基本であって、時として偶然的な要因が強く働くこともあるし、また、生物はどうやら本質的に、多様性を前提とした共生を保ちながら適応していくという特徴を備えているようにも思えるが、ここでは深くは立ち入らない。

 大切なことは、そういう能動的な働きかけを把握するツールが必要であろうということだ。個体発生レベルの働きかけに関して、スキナーは能動的な働きかけを「オペラント」と呼び、結果によって行動が変わる仕組みを「随伴性」と呼んで、生物世界の現象を理解するための概念的な枠組みを提唱した。私は決してこれを無批判に受け入れるものではないが(現に、「阻止の随伴性」概念や、「『もの』ではなく『こと』として捉える視点」について議論をしている)、現時点では、これより優れた枠組みを見出すことができない。また、そういう枠組み無しで(個体レベル、あるいは集団についての)生物現象を論じても、生産的な結論は得難いのではないかと考え続けてきた。

 この考えを保持するならば、現実的な問題を分析する際の共通した切り口が見えてくる。それは、現実世界を構成する個々体がどういう働きかけを行い、その働きかけに対してどういう結果が伴っているかを把握するという視点である。
  • 現実に行われている政策は、ある意味では壮大な「随伴性を操作した実験」であるとも言える。農業、工業、サービス、消費などさまざまな活動に対して、行政機関は、補助金や減税や罰則などの結果を与えて潤滑さを保つよう努める。政策が効果を発揮しない時には、それを廃止したり、あらたな結果を付加するような施策を追加している。
  • 上に述べたような「オペラント」と「随伴性」という概念的枠組みは、複雑性、不確実性、不安定性、独自性、価値葛藤に満ちた現実的問題に対して生産的な結論を引き出す有効なツールになりうるし、すでに応用行動分析の分野で十分な実績を上げている。
と私は考えている。もともとの問題である“「科学的な」とは何か?”については、いずれ、不定期連載でスキナーの『科学と人間行動』を引用しつつ論じていく予定である。

 次回は、教育活動と実験的方法の関係について考えを進めていきたいと思う。
【ちょっと思ったこと】

サカナちゃんと薩摩次郎八

 夕食時に「TVチャンピオン“サカナ通”選手権」を見た。TVチャンピオンからは数々の名物人間が輩出しているが、今回優勝したサカナちゃんこと宮澤正之さんもその一人。8年前、高2の時から足かけ8年、5連覇はTVチャンピオン史上初めてだという。

 それにしてもあれだけの博識、大学関係者としては、何かの学問研究に活かす道はないものかとすぐ思ってしまうが、御本人にしてみればあくまで楽しみあっての博識ということか。イラストレーターの職を得ながら人生をエンジョイしているのだから、今さら別の道を進めなどというお節介なことは言うべきではあるまい。

 人生をそれなりにエンジョイした人で思い出したが、みのもんたさんの「今日は何の日」によれば、2/22は薩摩次郎八(バロン薩摩)氏が亡くなった日だという。次郎八氏は豪商薩摩商店に生まれ、若い時からロンドンやパリの社交界で活躍。今のお金で600億円を一代で使い切った。もっとも、番組によれば、家からの仕送りがあったのは昭和10年まで。大恐慌で薩摩商店が閉業してからは絵画のコレクションを売って生計を維持。戦後日本に帰国してからは文筆活動をしながら利子夫人と生活し、昭和51年の2月22日に亡くなった。利子夫人によれば、次郎八氏はお金があってもなくてもいつでもお大臣の気分を保ち、決して貧乏性にならなかったとか。このあたり、粗大ゴミ置き場から物を拾ってきたり、スーパーで売れ残りの半額商品を喜んで買いあさったり、あるいは、重い荷物があってもタクシーではなくバスを利用する...といった貧乏性の私とは格が違ったようだ。

 さて、私自身が600億円を自分のためだけに使えるとしたらどうするだろうか。どんな豪邸でも5億か10億もあれば十分。車はせいぜい1000万。装飾品には全く興味なし。社交界もまっぴらごめんだ。食費は1食1万円としても年間で2000万あれば十分。結局余った金でマンション経営でも始めることになるだろうから、いつまで経ってもお金は減らない。慈善家になるなら話は別だろうが。