じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] アパート玄関の梅。うしろの「はせがわ」のヘゴ板は7〜8年を経た年代物。



2月16日(金)

【思ったこと】
_10216(金)[心理]今年の卒論・修論から(8)身近な人に「禁煙」を誓約することの効果

 2/15の日記の続き。今回とりあげる卒論のテーマは、自分自身の喫煙行動を観察したり、他者に禁煙を誓約することが禁煙行動にどのような効果をもたらすかを検討したものであった。具体的には、まず2週間、「今日タバコを吸いたいと思うときがありましたか」、「今日タバコを吸いましたか」、「今日タバコを吸いたいのを我慢しましたか」、「自分が禁煙していることを誰かに話しましたか」といったチェックシートで自己観察を続ける。引き続いて、3、4週目では次のような誓約書が身近な人に渡された。
__さん
わたくし____は
本日より__月__日まで禁煙します。
日付・署名捺印
 執筆者によれば、自己観察とは
行動の主体が自己の行動を観察、記録すること。それによって問題行動をいっそう意識化し、観察した行動を客観的な事実として捉えることができるようになる。
いっぽう後半に行われる誓約書の提出はコミットメントにあたる。執筆者によればコミットメントとは
個人が自分の行動に言質を与え、それに束縛されること。人前で「やる」といったら引っ込みがつかなくなり、コミットされた行動や決定は変更や撤回が困難になる。
というように特徴づけられるという。そして、単なる喫煙本数の変化ばかりではなく、被験者自身が自己観察やコミットメントのプロセスでどういう受けとめをしたのかを把握するという点で、禁煙行動の別の側面を探ろうとするものであった。

 自己観察やコミットメントの効果を検討した卒論研究は昨年にも行われているが、今回の論文は、問題の背景や先行研究との関連づけという点で不十分さが目立った。また、考察のところでは「止煙の意識」、「禁煙への動機付け」、「実験者の期待」、「実験者に監視されているようなプレッシャー」といった日常生活語が心理学的用語としてきっちり定義されないままに説明に使われている点にも不満が残った。さらに、実験の方法が単一被験体法のデザインになっていないため、介入の効果なのか、時間の経過による変容なのかがチェックできていないという問題もあった。とはいえ、被験者側の受けとめ方に照準を合わせた点は、社会心理学的アプローチとして評価できると思った。

 ところで、上に述べられた「自己観察」や「コミットメント」は本当のところはどういう効果をもたらしているのだろうか。
  • 執筆者は自己観察について「問題行動をいっそう意識化し、観察した行動を客観的な事実として捉えることができるようになる」と特徴づけているが、「問題行動を意識化する」というのは、ひとつは「漠然とした行動を具体的で数量化できる行動として捉え直す」ことであり、また、おそらく、その行動に対して自分自身で何らかの強化や弱化を行う状況を作り出すことを意味しているように思う。そういう意味では「自己観察」は
    問題行動を具体的、客観的に記述し、努力に応じた結果を与えやすい状況を作る
    というように捉え直すことができるだろう。
  • 執筆者はコミットメントについて「人前で「やる」といったら引っ込みがつかなくなり、コミットされた行動や決定は変更や撤回が困難になる」と特徴づけているが、なぜ引っ込みがつかないのかという点についてもっとつっこんだ説明が必要である。行動分析的に見るならば、言質(げんち)に一致しない行動をとることは様々な社会的嫌子をもたらす。こうした嫌子出現があればこそ喫煙は弱化されるのである。それゆえ、いくら、コミットメントをしても、誓約書を受け取った相手がそれに寛容であったり無関心であった場合には殆ど効果が無い。私などもけんこう更新日誌という別サイトで、夕食後の散歩の歩数、体重、体脂肪の変化を時たま報告しているが、読者からの反応が全く無いのでちっとも改善されていない。これがもし、「○日までに合計歩数○万歩を達成しなかったら、10名様をオフミに無料招待します」なんていう宣言をしていたらもっと着実な成果を上げていたはずだ。
 それから、念のためおことわりしておくが、行動分析学では、死んだ人でもできることは行動とは言わない。これを「死人テスト」と呼ぶ。ヘビースモーカーが突然死したらばその瞬間から「禁煙」が実現されることを考えれば分かるように、禁煙自体は行動とは呼べないのである。となれば、あくまでターゲットとなるのは「喫煙行動」であり、それをいかに弱化するかが禁煙の課題となる。但し、喫煙行動を弱化するための対策としてとられる一連の行動、ちょうど今回の研究で行われたような「自己観察」や「誓約書」の提出といった諸行動を便宜的に「禁煙行動」と呼ぶことはありうることだ。死んだ人は自己観察もコミットメントもできないからである。

 余談だが、先日この日記でも紹介した、『痛快!心理学』(和田秀樹、集英社インターナショナル、2000年)の中に、「断酒方法、日本とアメリカでこんなに違う」という記述がある。それによれば、
  • 日本の断酒会は、酒を5年間断つことができれば5段、10年断酒できれば10段といった具合に、柔道や将棋のような段位を設定しています。社会的な地位とは関係なく、その会の中では、長く酒を断っている人ほど「偉い」のです。
  • 一方、アメリカでは「アルコーリックス・アノニマス(AA)」と呼ばれるグループ・セラピーが主流になっています。「アノニマス」は「匿名の」という意味で参加者が全員「無名の人」として自分の経験を告白したり、本音で語り合ったりするのが、このセラピーの主旨になっています。社会的な地位とグループ内での立場を切り離すという点では日本の断酒会と同じですが、こちらは段位のような別のヒエラルキーを用意していません。社会的な地位の高い人も低い人も、お金持ちも貧しい人も、みんな同じ「無名の人」として付き合うことで、参加者は「苦しいのは自分だけじゃないんだ」「みんな同じ人間なんだ」と思えるのです。
  • コフート流に言うならば、日本の断酒会が「鏡」になっているのに対して、アメリカのAAは「双子」の役割を果たしているわけです。
というように、日本人とアメリカ人で断酒の方法に文化的な違いが見られるという。この指摘にどれだけの一般性があるのかは定かではないが、少なくとも社会心理学的なアプローチをするならば、禁煙方法についても、このような視点を取り入れて、文化的な要因を検討してほしかったと思った。

 さて、卒論研究についてのコメントはこれでひとまず終了。次回は、提出された論文全体についての総括と、今後の卒論研究の方向について考えを述べたいと思っている。
【ちょっと思ったこと】