じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] バレンタインデーということで、妻と娘は昨日からチョコレート菓子づくりに熱中。「○○にプレゼントしたい」という気持ちよりも、菓子を作ること自体に楽しみを感じているように思えた。写真は、この日のために妻が買ってきた「ナチュラル ハート」という商品名の多肉植物。正式には「サクララン」というホヤの一種のようだ。



2月14日(水)

【思ったこと】
_10214(水)[心理]今年の卒論・修論から(8)コンピューターを介したコミュニケーション(2)ネット上でのコミュニケーション不安

 2/12の日記の続き。今回の卒論の中に、ネット上でのコミュニケーション不安をとりあげたものがあった。ここでいうコミュニケーション不安(Communication apprehension; 以下CA)は、狭義の意味での対人不安として捉えられたものであり、例えば、「初対面の人と会うとき」、「就職の面接」、「人前でのスピーチ」、「目上の人との会話」などで感じる不安が挙げられるという。執筆者の主たる関心は、CMC(コンピューターを介したコミュニケーション、Computer-Mediated Communication)のメディア的特性のどの部分がCMC上のコミュニケーション不安に影響を及ぼしているのかを探ることにあった。併せて、現在CMCというコミュニケーションが人々にどのように認識されているのか、そしてどのような利用がされているのかについても検討された。

 具体的方法としては、200名を超える大学生(男性のほうがやや多い)を対象に
  1. CMCの利用実態:「この3ヶ月に、どのぐらいの頻度でEメール交換をしたか」、「知り合った人は何人ぐらいいるか」、「その人と実際に会ったことがあるか」など。
  2. CMCについての考え方を調べる尺度(CMC観尺度):「Eメールをすることは暇つぶしになるか」、「後腐れがないか」、「年齢・性別をこえて、新しい友人が作れるか」など。
  3. CMCへの懸念を調べる尺度:「知らない人にEメールを送るとき、緊張するか」、「Eメールが届くと憂鬱になるか」など。
  4. (ネット上ではなく)実際の対人場面におけるコミュニケーションへの懸念を調べる尺度(CA尺度):「知らない人と気軽に会話ができるか」、「目上の人や地位の高い人と気軽に会話ができるか」など。
から構成される質問調査が行われ、さらに2.から4.の各尺度について、因子分析によりそれぞれ複数の因子を抽出。それらの相関を調べたり、標準偏回帰係数を求めるなどの比較を行った。現実の対人場面におけるコミュニケーション懸念の大きさ(CA得点)とCMC懸念の大きさ(CM懸念尺度得点)の組合せから、対象者の一部を4群に分けて比較したところ、
  1. 対人場面でもネット上でも懸念の小さい群では、CMCについて、「自己開示の容易さ」、「自己演出」、「新しい縁」が高く評価された。
  2. 対人場面でもネット上でも懸念の大きい群では、CMCについて、「文章の吟味のしやすさ」、「文章表現の難点」が最も高く評価された。
このほか、E-mail交換の頻度に関して、E-mailを毎日交換しているグループでは、E-mail懸念が感じられなくなり、「娯楽性」や「既存縁の強化」という特性が高く評価される傾向があった。

 以上、方法と結果の概略を紹介させていただいたわけだが、当初の目的である、「ネット上でのコミュニケーションにおいて、どのようなメディア的特性が不安低減に関係しているか」という点に関しては、上記1.の結果に基づいて、「CMCは自己開示や自己演出が容易なコミュニケーションだ」とか、「新たな出会いの場だ」と認識することが、CMCでの不安の低下につながるかもしれないという可能性を示す」というレベルの結論を引き出すにとどまった。

 今回紹介した卒論研究はきわめてボリュームのある内容であり、その努力は大いに評価するが、議論の展開に関してはいくつか疑問を呈せざるを得ない。
  • 社会心理学の調査研究ではありがちのことだが、何が原因で何が結果となっているのか、因果関係が見出しにくくなっている。もともとはCMCのメディア特性を原因、CMCに対する懸念や不安を結果として捉えて分析を進めたはずであったのに、途中から、「高不安群」と「低不安群」というように不安の大きさの違うグループでCMC観がどう違っているのかを探る研究になってしまった。この場合「不安(懸念)が大きい人→CMCについて○○という評価が高い」というような結論は出せるが、「○○についての評価が高い→不安(あるいは懸念)が高まる」という逆向きの結論は直ちには導けない。ベイズの条件つき確率の公式として知られているように、例えば、「非行少年には親子関係に問題のあるケースが多い」という結論から「親子関係に問題があると非行にはしりやすくなる」という逆向きの結論は直ちには出せない。これと同様である。私が読み足りなかったせいなのか、記述に問題があるためなのかもしれないが、少なくとも文面からは、因果関係の推論が逆向きにすり替わっているような印象を受けた。
  • この研究では、CMCに対する考え方(「CMC観」)を48項目にわたって調べ、結果的に、E-mailによるCMC観35項目から8因子、ネット上での知り合いとのCMCに関する項目から3因子を抽出しているが、特に、前者の8因子については、どういう項目を含めるかでいくらでも因子数が増えていくような内容を含んでおり、その意義がいまひとつ分からない。大切なのは、「CMCについてどういう考えを持っているか」ではなくCMCのメディア特性についての客観的な記述、つまり、仮想の因子ではなく外的な要因として記述していくべきではなかっただろうか。例えば、Eメイルにおいて「時間を選ばずにメールが送れる」とか「相手の表情・口調などの手がかりがない」というのは、客観的な特性であって、個々人の考え方(=CMC観)に依存して変わるものではない。それらをわざわざ、「時間的利便性因子」とか「手がかりの少なさ因子」などと因子にまとめ上げる必然性はあまり無いように思う。そして、その上で、個々の外的要因の関与の違いを調べたり実験的に操作することこそが解明のカギとなるのではないか。
  • このほか、前回も述べたことの繰り返しになるが、ひとくちにEメイルとか電子掲示板などと言っても、非常に幅の広い内容がある。匿名性の高いものもあれば、実名を必要とするものもある。これらの内容に立ち入らず、利用頻度などの数量としてひっくるめて処理してしまった点には不満が残る。
  • Web日記を執筆したり日記読みを愛好している私の立場から言えば、Web日記を除外したCMC観というものはあり得ない。また、チャット、掲示板、MLの間でも著しい違いがあってひっくるめて回答を求めることには難がある。
 この研究のもう1つの目的である「現在CMCというコミュニケーションが人々にどのように認識されているのか、そしてどのような利用がされているのか」については、一般的な結論を導き出すことは難しい。今回の調査対象は某・国立大学学生に限られているが、産業労働者や主婦などで、ネットへの接続形態が著しく異なっているためである。しかも、2/12の日記で指摘したように、CMCはその内容自体が時代とともに変わる。

 「現在、○○がどのように認識されているのか、そしてどのように利用されているのか」という問いかけは、現在を生きている我々の大きな関心事ではある。しかし、その背景には、
  • 我々は現在のことをよく知っている
  • 現在について分からないことがあっても後から調べれば分かるだろう
という暗黙の了解があるのだ。ところが、10年、あるいは50年たってCMCについての研究が歴史的資料として意味をもつためには、「現在」という環境条件をちゃんと記録しておかなければならない。その意味でも、CMCの利用実態は、単なる利用頻度の把握ばかりでなく、接続の手間、メイルソフト操作の手間、金銭的なコストなど、多岐にわたって克明に調べ上げておくことが求められるように思う。
【ちょっと思ったこと】

実習船沈没事故の「癒し」

 愛媛県立宇和島水産高校の漁業実習船えひめ丸が、米原潜グリーンビルの急浮上のために沈没した事故をめぐって、救助された生徒たちや、行方不明者の家族に対して、カウンセラーを派遣する対策が検討されているという。事故にあった関係者が受けている心の傷は我々の想像を絶するものであり、そのような対策が早期にとられること自体は大いに結構なことだとは思う。ただし、「カウンセラーさえ派遣すれば何でも解決してくれる」というような過剰な期待は禁物であるし、「ちゃんとやっています。あとはお任せ」という行政側のアリバイに使われるのも問題。また、どういうセラピーが導入されるのかについても、第三者によってきっちりと評価されることが必要ではないかと思う。

 このさいはっきりさせておいたほうがよいと思うのは、阪神淡路大震災の時に被害者が受けた心の傷と、沈没事故によって受けた心の傷では根本的に性格が異なっているという点だ。

 大震災の場合は基本的には天災であって、人間ができることには限りがあった。いくら地震が起こったメカニズムを解明したところで癒しにはつながらない。これに対して、今回の事故はあくまで人災である。
  • 事故の原因が徹底的に解明されること。
  • 責任者に対する処罰が厳正になされること。
  • きっちりとした補償対策がとられること。
  • 今後の防止策が具体的に示されること。
などが確実に実行されなければ「真の癒し」はあり得ない。この種の問題は、カウンセリング批判としてしばしば耳にするところであるが、社会的・政治的な問題に対する「不満」や「怒り」や「悲しみ」はきわめて健全なものである。これらをないがしろにするような「癒し」はゼッタイにお断りだ。


森首相の言い訳の問題点その後

 2/15の朝日新聞によれば、森首相が「実習船事故への対応に問題はなかった」とする姿勢を崩さない点について、宇和島の関係者から疑問の声が上がっているという。
  • 連絡を受けてもゴルフを続けるという首相の考えを理解する人は、周りにはいない。ひとごとと考えているようにしか思えない(家族)
  • ぼくが大臣なら、すぐに駆けつけるか、電話にかじりついて情報収集する(同じ高校の男子生徒)
 きのうの日記でも述べたように、今回の事故が首相官邸が責任を負うべき危機管理の対象にあたるかどうかは議論の残るところであろう。しかし、例えば、森首相自身が「神の国」、「教育勅語」発言に関連してとりあげた「滅私奉公」の精神、あるいは昨年5月に当時の中曽根文相が中教審に諮問した「幼稚園段階から、自分以外の存在を尊重する姿勢を学べるようにする」という内容に照らし合わせてみた時には、やはり問題であると言わざるを得ない。教育改革の先頭に立とうとする人は、「連絡を受けてもゴルフを続ける」姿勢が滅私奉公や自分以外の存在を尊重する姿勢と矛盾しないのかどうか、きっちり答弁する必要がある。