【ちょっと思ったこと】
原始人は徳が高い?
北九州から義母がやってきたので、片道40分ほど車を飛ばして小森温泉まで行って来た。帰りがけにラジオをつけるとNHK第二放送で通信高校講座・漢文で論語の話をやっていた。
運転中のためあやふやな聞き取りになるが、孔子の時代、すでに世の中は乱れており、伝説の聖獣の麒麟が現れたとの噂を聞いた孔子は「今の時代にそういうものが現れては困る」と怒ったとか。
弟子が「今の時代、親孝行とは養うことのように言われておりますが」と尋ねると、「敬いなくして何の孝行か」などと説教をたれたという。孔子の時代からすでに「昔はよかった、今はダメだ」というオヤヂ論がはびこっていたとは、まことに興味深い。
そのあと、いちばん大切なことを漢字一文字で表すと何かというような話が進んだところで、講師の先生がとつぜん、「原始人は徳の高い人が多かったんですねえ」などと言いだした。またまたオヤヂ論かと思ってその続きを聞いたところ、
何と、原始人に徳の高い人が多かったのは、
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原始人はオモイヤリを持っていたから。
だそうだ。まじめくさった論語の解説の最中に唐突な駄洒落が出てきて、私は一瞬凍ってしまった。
※[2/4追記]「昔は良かった」論についてはこちらに河合隼雄先生の引用があった。
- 「昔は良かった」とは進歩についてゆけぬ人の言葉である」。
- 「昔は良かった」という人の話は、だいたい「自分の子どもだった頃は」「自分の青年時代は」という前提があって、それに比べて「今の若いモンは」という非難につながっていることが多い。「昔」といっても、せいぜい自分が子どもだった頃の話が多いわけで、決して江戸時代や戦国時代の話をしているわけではない。
- 「昔」と「今」の比較をしているようで、実際には、「自分が若かったときは」あるいは「自分たちは」良かったと言いたいことが多い。
- さらに、「昔は良かった」という話の中からは、「ではこれからどうすればいいのか」という方策が出てこないのも特徴。
- こう考えると、「昔は良かった」論は、社会の変化についていけなくなったときに言いたくなるものではないだろうか。
視線と目線
このところなぜか「目線(めせん)」という言葉をよく聞く。先日の「ためしてガッテン!」のボウリング上達法の中でも出てきたし、2/4のスポーツ番組の中でもこの言葉が出てきた。放送で「視線(しせん)」というと「死線」を連想させるためわざと言い換えているのかと思ったが、『新明解』(三省堂、第五版)で調べると若干意味が異なることが分かった。
- 視線:その人の目と、目が見<ようとし>ている対象とを結ぶ線分。[光は対象から目の方向に向かうが、視線は、目から対象へ向かう有向線分として意識される]
- 目線:[舞台・映画撮影などで]演技者やモデルなどの目の向いている方向・位置・角度など。[俗に「視線」の意でも用いられるが、「目線」は目の動きに応じて顔も動かす点が異なる]
となると、単に見る方向を指示する時や、顎を引いて相手の顔をにらむ時は「目線」ではなくて「視線」を用いるべきか。
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