じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] 低気圧の接近により、岡山では13時から14時頃にかけて激しく雪が降り、一時は車道もシャーベット状になった。その後雨に変わり、夕刻にはすっかり融けた。



1月7日(日)

【思ったこと】
_10107(土)[心理]人間界の左と右(14)スプーンの内側に映る像その後(2)/『もし「右」や「左」がなかったら/「夫婦」の反対語は何か?

 1/3の日記でとりあげたスプーンの内側に映る像に関して、お互いを更新する掲示板でさらにたくさんの情報をいただいた。
  • まず、1/5の日記で「分子構造におけるL型とR型」などといい加減なことを書いたところ、casaさんから
    分子構造における鏡像異性体は、
    「d・l(小文字のエル)」か「R・S」か、「(+)・(-)」で
    表記します。(dlRSはいずれも斜体です)

    これら3種類は互いに異なる方法による区別なので、
    d=R=(+)
    などの関係は成立しません。

    d/lはラテン語の右/左の頭文字で、R/Sは...忘れました。
    +/-は旋光性が時計回り/反時計回りかを示しています。
    という御指摘を受けた。そういえば、むかし生理心理学っぽい文献を読んでいた時に、dアンフェタミンとかエル・ドパミンというような薬物が出てきたことを思い出した。どうもありがとうございました。

    [※追記]こちらに化合物のついての面白い話題があった。同じサイトの中のjunk 辞典には鏡像異性体についての用語解説があった。そのほか『左右を決める遺伝子』(柳沢桂子、講談社ブルーバックス、1997年)という本が面白そう。

  • yoichiさんからは「テナガザル(2歳の)が鏡を見て自己認識できるかどうか」という話題をいただいた。この「自己認識」に関しては、似たようなデザインを用いて、「ハトでも「自己認識」できるやんけえ、ということを示した実験もある。ハトが自己認識しているかどうか確証はないが、鏡に映った像を手がかりとして自分の体の見えない部分をつつくということはできるようだ。

  • 「鏡映像の右と左」の問題については、2000年の7月中旬から下旬にかけて、一部のWeb日記作者のあいだで話題になったことがあった。その時にも発言されていた読書と日々の記録のみちたさんからは以下のような情報をいただいたので紹介させていただく。
    鏡映像の左右の問題には、決定的な本があることがわかりました。

    『鏡の中のミステリ−−左右逆転の謎に挑む−』(高野陽太郎 
    1997 岩波 科学ライブラリー \1000)

    です。この本が決定的である点は、人物像の反転と文字の反転は
    別の現象と考えた方が妥当と洞察した点です。
    さっそく注文させていただきました。
後日寄せられた追加情報
  • ザウエルさんより:左旋性(反時計回り:levorotatory)と右旋性(時計回り: dextrorotatory)のd/lのようですね。失礼しました。
  • casaさんより:
    d/lは、ギリシア語でした。(上のザウエルさんの書き込み通りです)
    R/Sが、ラテン語でした。(rectus/sinistrus)

    実は、体の左右を決めそうな遺伝子が1998年に見つかりました。
    (1997年の本には載っている遺伝子は、その情報を下流に伝える遺伝子です)

    上下・前後・左右の区別が存在しない(まん丸の)受精卵から最終的には左右の区別がある体が形成されるのは、長年の謎でした。
    上下(どっちが頭でどっちがお尻か)と前後(どっらが腹でどっちが背中か)は、自由に決めることができますが、上下・前後が確立した後に決定される左右軸は、自由には決められません。
    (下手な説明でわかりにくいなぁ...)
    その自由に決められない左右軸を間違うことなく決定するには、分子(たぶんタンパク質)の光学活性を利用していると考えられてきました。
    (タンパク質の材料であるアミノ酸は、各2種類ある鏡像異性体のうちの
    1種類しか生体内には[ほとんど]存在しない)
    で、体の左右を決定するのに利用されているタンパク質が見つかったんです。
    このタンパク質(KIF3B)の遺伝子を欠損させたマウスは、半数の個体で心臓が右に位置していたようです。
    (この場合、他の器官の位置も左右が逆になっている)
    "http://www.ncbi.nlm.nih.gov/entrez/query.fcgi?cmd=Retrieve&db=PubMed&list_uids=9865700&dopt=Abstract



 ここからは別の話題になるが、「左右」概念に関連して、少し前に

『もし「右」や「左」がなかったら〜言語人類学への招待〜』(井上京子、1998、大修館書店、ISBN4-469-21222-9)

という本を読んだことがあった。この本も、どこかのWebサイトの書評を拝見して注文したもの。ネット上での読書情報はたいへん参考になる。この本では
  • 世界中の人々がそれぞれの言語を使って森羅万象を表現するとき、言語ごとに特有な切り取り方がある[まえがき]
  • 「左」「右」の語彙不在がいくつかの言語で確認された。それまで心理学界では、人間の「自己中心的」(egocentric)な空間認知が当然のこととされていたが、実は必ずしもそうではない。言語によっては自分の他に「中心」を置くものもある。[p.6]
などが紹介されている。「左」「右」の語彙が無い人たちは鏡に映った像を見て何が逆になると言うのか、いちど聞いてみたい気がする。

 この本にも「都市部は左右派、農村部は東西派」という章があった。本の内容はタミル族(インド)に関する話だが、我々が東京の23区内を地下鉄で移動するような場合も状況はよく似ているように思う。じっさい地下鉄で移動する際には、東西南北など知らなくても全く支障にならない。「地下鉄○○線の○番の出口を出て、最初の角を右に曲がって何番目のビルの左側」などと表現すれば事足りるのである。いっぽう、山で道に迷った時には磁石がないとひどく苦労する。

 この本ではこのほか、ミラーイメージ、「左右も東西もない世界」、「日本語は左右派か東西派か」など、面白い話題が続いている。第3章の「空間はこうして切り分ける」は鏡像の捉え方にも密接に関連しているように思う。いずれ別の機会に詳しく取り上げたいと思っている。


 もうひとつ、これは全くの余談だが、1/6の夜に子どもたちが「サタ・スマスペシャル」という番組を見ていた。「おなべ」とホンモノの男性を見分けるコーナーで、「おかま」と結婚している「おなべ」が紹介された。戸籍上は「おなべ」が妻で「おかま」が夫ということになっているが、実際の夫婦生活では男性と女性の役割が逆転している。もし「夫婦」の反対語は?と聞かれたら「おなべとおかまの夫婦」というのが正解になるのではないかと、ふと思った。
【ちょっと思ったこと】

成人の日

 昨年から成人の日が1月の第二月曜日になった。第二月曜というのは最も早い場合が8日、最も遅い場合は14日となる。今年は元旦が月曜日だったので最も早い第二月曜にあたっている。

 法律上の成人は20歳の誕生日を迎えた日ということになり、この日を境にいろいろな権利を行使できるようになるわけだが、その一部はかなり形骸化している。例えば18歳の大学生が飲酒や喫煙をしていても補導されることはまずありえない。昨年3月7日の日記でも取り上げたように、最近は大学でも新入生に対して「お酒とつきあうためのガイドブック」を配るようになった。建前は「20歳未満の飲酒は禁じられている」とうたっているが、実際にはお酒を飲むことを前提として、健康を守るためのアドバイスを行う内容となっている。

 飲酒も喫煙も選挙権も、このさい18歳に引き下げることのほうが現実的であろうと思う。ただし当然のことながら、それに伴って生じる義務や責任も完全に同等に負わなければならない。その自覚を促す教育を高校段階で行うことも必要かと思う。

 18歳と言えば、教育改革国民会議の中では奉仕活動の義務化について活発な議論が行われたようだ。ネットで公開されていた「議第1分科会第2回議事録」(昨年6月15日)の中で曾野委員は18歳の国民を奉仕役に動員することについて「共同生活、質素な生活、暑さ寒さに耐えること、労働に耐えること、このようなことの基本をやることの必要を説いておられた。この議論の後半では、「林間学校とか青年何とかの家というのは、設備が良すぎる。トイレをとればいい。」というように興味深い議論が続くのだが、最終答申ではかなりトーンダウンしてしまった。

 これらの議論のいちばんの問題点は、「体験」がどのような行動随伴性のもとで強化されるか、それが日常社会にどう般化するのかを全く考慮に入れていないことにある。学校での掃除当番体験が町中での清掃活動ボランティアに結びつかないという事例を見れば明らかであろう。もっとも、18歳前後の若者が「義務化」ではなく自主的な形でさまざまなボランティア活動に主体的に参加することについては、社会的にもっとそれを保障し評価する環境を作ってもよいとは思っている。この議論はまた別の機会に。