じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] ブロッコリーに咲いた「ちいさい春」。春に植えた株をそのまま放置しておいたら一部木質化し、再び新芽が出てきた。



12月26日(火)

【ちょっと思ったこと】

なんでも鑑定団と投資

 夕食時「開運! なんても鑑定団史上最強スペシャル!!」の一部を見た。一般応募の目利き王バトルでは、6歳の少女が決勝直前まで勝ち残るなど、当てずっぽうでもそれなりに当たる可能性のあることが実証された。ホンモノとニセモノの見分けがいかに難しいかと示しているとも言えよう。

 物の価値と言っても骨董品には使用価値は殆ど無い。基本は交換価値であり、それはさらに希少価値や芸術的価値によって規定されるようだが、芸術的価値だけを評価するならば贋作でも「美しければそれでよい」と言えないこともない。ホンモノを見分けるスキル自体には意味があると思うが、私の趣味ではないなあ。

 もっとも、考えてみれば低迷の続いている株価も同じことかもしれない。ほんらい投資というのは、単なる金儲けではなく、企業の成長に期待し、経営に関与することで一定限度その企業と将来を共有し、社会への間接的な貢献を果たすというぐらいの気概があってもよいはず。しかし、ネットを通じて小規模な投資をする場合などは、もっぱらその株価がホンモノかニセモノか、将来どれだけの値上がりが期待されるかということだけに関心が向いてしまう。「投資」というよりも「投機」と言ったほうがよいかもしれぬ。

 骨董品の話から脱線してしまったが、小口の投資家からの要望をもっと取り入れ、株価値上がりによる差益は期待できなくとも投資に見合った株主優待措置を充実させるようにすれば、投資家は自分の生活環境との関わりを重視しながら責任ある投資活動を行うようになり、また結果的に株価安定にもつながると思うのだが、いかがだろうか。




渡辺和子さん急逝

 「キャンパス・セクシュアル・ハラスメント全国ネットワーク」の代表などをつとめられた渡辺和子・京都産業大教授が25日朝、心不全で亡くなったという。渡辺さんのご活躍ぶりは学内のMLなどからしばしば伝えられており、私自身、98年4月15日に、直接ご講演を拝聴したことがあった。あの時の講演をきっかけにして学内でもセクハラ防止の声が急速に高まり、その後学内にも常設の委員会や相談窓口が設置されるようになった。もっともつい最近不祥事が発覚したことに示されるように、まだまだ十分な対策が施されているとは言い難い。あの時とりあげたアカハラの問題なども、まだまだこれからという気がする。大学院における複数指導教員制などもっと進めていくべきかと思う。
【思ったこと】
_01226(火)[教育]最近の大学教育論議でおもふこと(39)授業評価内容に見られる日米の差?

 12/5の日記の続き。前回の日記で学生による授業評価の問題を取り上げたが、最近、これに関連して、カリフォルニア大学で実際に行われている「CAPE」という評価システムについて資料を入手する機会を得た。「CAPE」というのは「Course and Professor Evaluation」の頭文字をとったもので、学生が各授業科目について20項目の評価点についてマークするようになっている。これが米国の典型であるのかどうかは定かではないが、かなりスッキリしていて大いに参考になると思った。特に、
  1. 各質問が例えば、「2. Instructor is well-prepared for classes.」というように簡潔で明解な言い切り型の文になっている。
  2. 各質問に対する回答は、「1. strongly disagree」、「2. disagree」、「3. neither disagree nor agree」、「4. agree」、「5. strongly agree」という5段階評定および、「0. not applicable」という6択方式となっている。
  3. 評価内容が、「Instructor evaluation」、「Course evaluation」、「TA evaluation」というように分類されている。
  4. 最後に「19. Do you recommend this course overall?」と「20. Do you recommend this professor overall?」というように科目と担当教員についての設問があり、この2つだけは「yes」または「no」の二者択一型で答えさせるようになっている。
 このうち1.は、質問法一般において非常に大切。心理学で用いられる質問紙調査や質問紙型の心理検査の場合もそうだが、質問内容が何通りにも解釈されるようでは正確な調査はできない。

 2.は、回答を間隔尺度化するという点で大いに有効。選択肢にゴテゴテと形容詞がつけられていると、回答内容は順序尺度、あるいは時として名義尺度化してしまい、算術平均をとると統計の誤用を招くことになる。また、講義、演習、実習といった多様な授業形態のなかで質問自体が妥当でない場合のあることを考慮するならば、「0. not applicable」という選択機会を与えておくことはぜひとも必要であろうと思う。

 3.の分類のうち、「TA evaluation」は日本の大学では時期尚早かもしれないが、「Instructor evaluation」と「Course evaluation」の分離は大いに必要なことではないかと思う。なぜなら、ひとくちに「授業が難しい」といっても、そもそもその科目自体の設定に無理があったのか、担当教員の教え方が分かりにくいことに問題があったのか、はっきりしないからだ。これは4.に挙げた「19. Do you recommend this course overall?」と「20. Do you recommend this professor overall?」にも当てはまることだ。
例えば、同じ教科書を使った多変量解析の授業が2コマ、別の教員によって担当されていたとする。どちらの授業にたいしても「Course evaluation」が低く、「あまりにも難解」という評価が出された場合は、その講座としては、より基礎的な統計法の授業を充実させる責務が生じる。いっぽう、「Course evaluation」は高いが、2名のうち1名の教員についての「Instructor evaluation」が低ければ、それは教員の教え方のほうに問題があると解釈できるだろう。
科目の設定についての評価と教員個人の教え方についての評価は、このようにはっきり分けておいたほうがスッキリする。

 あくまで一例ではあるが、いかにも米国らしいと思ったのは、やはり「ストレートに聞く」という質問者側の態度と、それに対して「賛否をはっきりさせる」という回答者側の態度それぞれに見られる文化差だろうか。

 日本の大学の授業評価では、あまりストレートに質問してしまうと「どちらとも言えない」という回答ばかりが出てくる恐れがある。そこで、例えば「教員の教え方に熱意があった。賛成か反対か?」という聞き方に代えて「あなたはその教員の教え方に熱意を感じましたか?」という婉曲な聞き方をする場合がある。厳密に言えば、「回答者がどう感じたか」というのは「回答者個人の主観的な感想を問うているだけであって、回答者による評価とは言えない」という問題があるのだが、その一方で曖昧を好む日本人の特性を考慮することもやはり必要かと思う。

 このほか、米国の大学では大学運営における情報公開が進んでおり、学生代表が運営、時には入試の会議にも参加すると聞いたことがある。教育活動に対する多様な評価を進める中で、受講生たる学生の評価が不可欠である以上、そうした評価活動のスキルを向上させるための各種の研修、学生が責任をもって大学の評価に参加できるシステム、かつそういう活動に参加することが栄誉として公認され就職活動でも有利にはたらくように合意を形成していくことがぜひとも必要かと思う。