じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] 岡大事務局前のサザンカ。花が散る時、花びらごとに別々に散るのがサザンカ、1つの花が丸ごと落ちるのが椿などと言われるが、この木の下には花びらがいっぱい落ちていた。



12月3日(日)

【思ったこと】
_01203(日)[心理]しごと、余暇、自由、生きがいの関係を考える(8)時間の自己管理、それとも「いま」という失われることのない時間の中で生きるか

 12/2の日記で、20世紀もいよいよあと一カ月を残すだけとなり、いまや「今世紀のうちに」というキャッチフレーズで見通しや展望を述べる時期ではなく、それに向けた努力がどこまで達成されたのかを評価する時期に来ていると述べた。このように、達成目標を定めて期限内にベストを尽くすという計画実行型の行動は、集団ばかりでなく個人個人の前向きな生き方としても意義が認められている。

 しかし、何から何まですべてに期限を設けるという生き方はきわめて義務的となる。日々向上をめざすための行動を窮屈に感じるのはなぜだろうか。結局のところ、これは「時間」をどう捉えるかにかかってきているように思う。

 この連載で何度も言及している『自由論---自然と人間のゆらぎの中で』(内山節、1998年、岩波書店、ISBN4-00-023328-9) の第5章には、時間と自由との関係についての興味深い考察が多数記されている。

 内山氏は時間には2つの自由があると論じておられる。それは
  1. 自在に時間を配分する自由
  2. 失われることのない、いまという時間を自在につくりだす自由である。
 期限や時間に追われて必死に頑張る時に欲しがる「自由」というのは主として1番目に関する「自由」であるようだ。その背景には時間労働制がある。第5章からその部分を引用すれば....
.....その仕事をやりとげることが重要で、そのためにどれだけの時間がかかったのかは二の次だった時代から、仕事は決められた時間内に仕上げてこそ価値がある、と考える時代への転換が労働の世界ですすんだ時期に、学校教育でも、時間内に覚え、時間内に答えることが能力だと、みなされるようになっていった.....
..........【中略】
 現代人は、適切な時間管理ができているかどうかを、すぐれた生き方の基準にしているような気がする。時間の管理という発想は、二十世紀初期の工場改革のなかから生まれたものに違いないが、それは時間が商品をつくりだしていく工場のかたちを、創造するための発想だった。労働者の腕や術がものをつくりだす時代から、時間管理のもとで決められた作業をすれば商品がつくられていく時代への転換が、この発想をもとにしてすすめられたのである。この変更がうまくいったところでは、工場の主役は管理された時間に移り、労働はその道具になった。
 ちょうど「旅」が「移動」に変わったように、このとき労働もまた標準作業にと変わったのである。
そういう社会で生きていると、経過する時間が問題になり、その時間に追いかけられる。それゆえ、「時間の使い方を他者に管理され、自由に時間を配分できないとき、私たちは時間の自由を奪われていると感じる。」ということになるのだ。

 この感覚は自分の一生の生活設計まで及ぶ。やや長くなるが、この点について内山氏は、
 ....【略】......こうして、私たちは、永遠につづく時間の自己管理計画をつくり、その計画に追われるようになった。
 ...【略】.......多くの者が死を恐れるのは、死が時間の管理の消滅へと私たちを導くように、思われるからなのかもしれない。もしかすると、現代人たちは、主体的であるということを、しっかりした時間の自己管理をおこなうことだとなんとなく理解していて、時間の自己管理が必要ではなくなることに、主体の消滅を感じとっているのかもしれないのである。とすれば管理する時間の喪失は、現代人にとっての「死」である。
 部分的には同じようなことを、私たちは老後という言葉にも感じとっている。「老後」はすでに高齢化した者にとっては、そこに自分の存在があるのであって、別に不安なものではないのだけれど、これから「老後」を迎えようとする者には、この言葉はたえず重圧を与える。それもまた「老後」が、時間を管理する必要のなくなったときを迎える喪失感を、私たちに予想させるからであろう。
 では、こうした空しさを感じず、「失われることのない、いまという時間を自在につくりだす自由」とはどういうものだろうか。旅行に例えるならば、それはスケジュールに追われるパッケージ旅行をやめて、好きな場所に居たいだけとどまり、気の向くままに移動する生活であるとも言える。大切なことは「いま」である。この点について内山氏は
老人も、若者も、子供も、誰もが同じようにいまという時間を生きていて、この時間には年齢による差は生じない。いまという失われることのない時間、存在しつづけている時間とともに、誰もが生きているのである。
 もしかすると、この永遠の時間は、感情をももっているのかもしれない。それはときに楽しい時間になり、悲しい時間になる。激しい時間になることも、おだやかな時間になることもあるだろう。どんな時間にでも変わることができる。なぜそんなことが可能なのかといえば、この時間は人間の存在そのものとともにあるからであろう。ここでは、時間は自由に変わり、自由につくりだされていく。
と語っている。行動分析的に見れば、この「いま」とはルールに支配されない直接体験。環境に能動的に働きかけ強化されているいまの「じぶん」そのものであるとも言える。

 時間の管理は生産性を生み出すがゆえに尊重されてきたが、「今世紀のうちに」とか「21世紀にはぜひ」などと時間を基準に物事を進めるばかりでなく、時間と自由との関係をもう一度考え直してみるのもよいのではないかと思う。内山氏の時間論に若干の疑問があるとすれば、一生懸命頑張ったことの思い出とか、将来の夢を描いて頑張ることが、「いまという失われることのない時間の中で生き」ることとどう整合するのかという点であるが、少なくとも定年後は、あまり思い出に浸ることなく、いまを大切にしたライフスタイルを考えてみたい。
【ちょっと思ったこと】