じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa


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[今日の写真] 農学部銀杏並木で見かけたマスカット風のぎんなん。まだ実は柔らかい(右の写真)。 [今日の写真]




7月4日(火)

【思ったこと】
_00704(火)[心理]行動主義は危険思想か?(続き):結局は実績が物を言う

 昨日の日記では、行動主義が思考を制限するという考えに対して、
行動分析的な視点を提示することは、一般常識的な物の捉え方に対して、もう1つ別の見方があるということを示せる。少なくとも現時点では「思考の拡大」につながる。
という見通しを述べた。将来的に、行動分析的な視点が一般常識的な捉え方として定着すれば、そこではさらに別の発想が求められることになるだろうが、現時点ではそれに達していないという認識だ。

 これは、科学的な見方が普及する過程と同様。科学が未発達で人々が迷信や因習に囚われている時代には、科学的視点を提示することは「思考の拡大」につながる。しかし将来的に、何でもかんでも物事を科学的視点だけで捉える傾向が高まれば、その時には別の視点が求められるようになるだろうということだ。

 現実には、自然科学の分野では科学的視点は多くの人に受け入れられている。むしろ科学万能主義が批判にさらされているほどである。ところが、残念ながら、人間行動については、相変わらず科学的視点をとることを頭ごなしに否定する人がいる。スキナーは『科学と人間行動』という著書の中で、行動そのものについての科学、あるいは「自然科学を研究する行動」についての科学を樹立することが、戦争の危機や機械文明の弊害から人類を救うためにぜひとも必要であることを50年前に説き、自ら行動分析学の基盤を築いた。それは、障害児の自立のための訓練などで一定の成果を上げてきたが、残念ながら人類全体の共通認識には至らなかった。だからこそ、現実社会のいろいろな場面に行動分析的視点を提示し、必要に応じて成果を示し、それを事例として広く伝えていくことが求められているのである。

 この日記では、これまで何度も「行動分析的視点」などという言葉を偉そうに使ってきたが、その内容は最初から固定されたものではない。昨日の日記でも述べたように、この視点は、「予測と制御可能性」という真理基準や「簡潔性」に照らして、有効性を高めるために今後も改変されていくであろう。例えば、行動分析が「潜在意識」による説明を行わないのは、それを否定する教理があるためではない。「予測と制御可能性」のツールとして有効性が低いから採用していないだけのことである。今後、何らかの研究によってその有効性が高められた時には排除する理由はどこにもない。

 じつは、行動分析の教科書で真っ先に出てくる好子(強化子)という概念についても、絶対不滅の概念とは言えないところがある。私自身、これには少々不便を感じている。というのは、好子というのは純粋な物理概念ではなく、それを獲得する生活体側での確立操作(飽和化や遮断化)レベルの変化に依存して、その機能が変化してしまうからである。といって、現時点ではこれより優れた概念的枠組みが浮かばない。

 同じ疑問は弁別刺激とか条件刺激という概念にも当てはまる。これらは、いっけん生活体から独立して操作可能な純粋物理刺激であるかのように思われているが、実際には生活体側の応答性に依存して定義される概念である。例えば、メトロノームの音を聞いてよだれをたらすイヌが居た時、その音は「条件刺激(CS)」と呼ばれるけれども、これは、メトロノームの音を物理的にどのように分析しても出てくる成分ではない。要するに、物理刺激としてのメトロノームの音とイヌの応答という反応の両者の関係性に依存して定義される概念なのだが、いざ実験を行う時には、「条件刺激提示の60秒後に無条件刺激を提示する」というように、被験体側の応答を無視して操作が行われてしまう。こういう概念的枠組みがベストであると固定するわけにはいかない。

 「予測と制御可能性」の真理基準や「簡潔性」に照らして、行動分析の概念の中で最後まで変わりそうもないのは「行動随伴性」かもしれない。これは
(オペラント)行動がたくさん起こっている時には、そこには何らかの結果(好子出現あるいは嫌子消失)が伴っているはずだ。
という視点を基本としている(他に、弱化、消去、「阻止の随伴性」概念があるけれども)。

 問題は、行動がたくさん起こっているにも関わらず明確な結果が見つからなかった場合にどうするかということだろう。それをもって行動随伴性概念は無効であると考えることもできるし、いや何かあるはずだと考えて結果を探し求めることもできる。後者では「行動内在的な結果」や「自分自身が付加する言語的強化」のようなものまで捜索範囲を広げていくことになるので、決定実験によって否定されることはない。結局のところは、どちらが多様な行動をより簡潔に説明でき、予測と制御可能性のツールとして有効かということにかかっているのではないかと思う。

 結局のところ、行動分析を否定する人との論戦はあまり意味が無いだろう。誤解や曲解に対する必要最小限の反論は必要であろうが、大切なことは実績を示すことだろう。行動分析的視点を採り入れた人々から、「自己管理がうまくいった」、「うまく協力できるようになった」、「仕事にやりがいが出てきた」といった体験談が増えれば、向こうから人がやってくる。そういう場を、教育場面、職場、介護施設等にふやしていくことに努めていくことがいちばん大切であろうと思っている。
【ちょっと思ったこと】



 
【今日の畑仕事】

 朝から授業のため一度も立ち寄れず。
【スクラップブック】