じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa


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[今日の写真] 時計草。ベランダの鉢に水をやっていたら、手すりに絡まっている時計草の花が綺麗に咲き始めたのを発見。撮影したあとで6/10は「時の記念日」ということに気づいた。



6月10日(土)

【思ったこと】
_00610(土)[一般]ボランティア活動と恋愛との類似性

 6/5〜6/8のNHK教育「にんげんゆうゆう」(19:30〜、再放送は翌日の13:05〜)は「我が町の自然を守る」のシリーズ。
身近な環境保全への関心の高まりとともに、環境ボランティア活動が盛んになっています。長期的で着実な活動の中から、それらを通して生み出された成果をうかがいます。[6月番組表
という趣旨で、長年活動に取り組んでおられる方々が出演された。私はこのうちの2回分を拝見したが、どちらもなかなか示唆に富む内容だった。本日はこのうち6/6(火)の「里山をトンボで守る」について感想を述べたいと思う。

 この回は、埼玉県寄居町でトンボ公園の設立に力を注いだ新井裕さんが出演。自宅の一室を開放したトンボ博物館、田んぼを借りて作ったトンボ公園、仲間とのふれあいなど、苦労話や今後の豊富を聞くことができた。

 もっとも、これだけだったら、単なる美談あるいは苦労話に終わってしまい、「大変でしたねえ。」、「これからも頑張ってほしいと思います」程度の感想しか出てこない。私が興味をひいたのは、番組の最後のあたりで、新井さんが長年つとめてきた「寄居町にトンボ公園を作る会」の代表の座を降りたという点にあった。詳しい経緯は番組の中では伝えられなかったけれど、どうやら、トンボを守る運動を発展させようとするなかで、
  • 生活の片手間にボランティアとして活動してきた仲間たちと
  • 法人化し、専従を置いて活動の輪をさらに広げていこうとする新井さん
とのあいだで今後の方向をめぐって不一致が生じ、新井さん御自身は県職員を退職してNPO法人活動へと身を投じていった模様(決して喧嘩別れしたわけではない)。ボランティア主体の自然保護活動のありかたを考える上で非常に参考になった。

 後日ネットで検索してみたところ、寄居町のトンボを守る運動に関連して2つの会があることが分かった。 このうちの前者の外郭団体として紹介されている「むさしの里山研究会」が、どうやら新井さんが新たに設立したNPO法人のようだ。

 ここからは寄居町の話題ではなく、一般論であるとお断りした上で考えを述べさせていただくが、ひとくちにボランティアと言っても
  • 自分のきっちりとした生活が別にあった上でその合間にボランティア活動を行う場合と
  • 活動そのものに使命感を感じて人生のすべてをつぎ込もうとする人の場合
では、活動への関わりも違ってくるだろう。これは障害者支援活動の場合でもリサイクル運動の場合でも平和運動の場合でも同様。もともとは「自分でもできることは何かないか」という気軽な気持ちで始めた活動であっても、それを通じて、問題の奥深さや重大さに気づくと、片手間程度ではできなくなってしまう。あげくのはてには仕事も辞めることさえある。

 これは個人レベルにとどまる変化ではない。ボランティア組織の活動にのめり込む人が増えてくると、集まりの回数を増やそうとしたり、組織の拡大やNPO化を主張する人が必ず出てくる。特に、重い社会的使命をになった活動ではその傾向が強い。そうなってくると、そのいっぽうで、それまで自分自身の仕事の妨げにならない程度で気軽に参加してきた人たちの中には、活動が義務化し重荷になってくると感じる人たちが出てくる。組織を階層化し活動を多様化して、熱心な人と気軽に参加する人の両方のニーズに応える道を開くか、それとも、別建ての組織にして連携をめざしていくのか、こういう悩みを抱えたボランティア団体は結構多いのではないかと思う。

 こうして考えてみると、ボランティア活動への参加は、ある意味では「気軽な人付き合い」から「恋愛」への発展という人間関係の問題と似たところがあると思う。気軽なレベルで時たま会う程度の人付き合いだったら長続きするが、それが恋愛に発展していくと、逆に煩わしさ、重苦しさを感じてしまい、結果的に元の気軽な付き合いに戻れなくなってしまうということがある。

 ここでもういちど最初の話題に戻るが、自然保護の象徴的な存在と捉えてその活動の輪を広げていくことにはそれなりの意義を感じるが、その一方、里山を中心とした生活環境全体の自然保護の問題に取り組んでいくためには、同時に、もっと多様な活動が並行して行われなければならないようにも思う。具体的には、田んぼをつぶしてトンボ公園を増やすのではなく、田んぼで米作りを体験しながら、それと一体となった水生動物、周辺の環境を活かす取り組み、さらには、水資源と排水、物の生産と消費を取り組んだ循環型社会を作る取り組みというものが求められる。この点では「里山をトンボ守る」ことには敬意を表しつつもやはり限界を感じざるを得ない。やはり基本は、循環型社会の中で自然環境を守り、その結果として、トンボが至るところに増えるというところにあるのではないかと思う。
【ちょっと思ったこと】

外来語その後

 6/6の日記の「ちょっと思ったこと」で国立国語研究所による外来語の調査についてふれたが、この報告を受けたと思われる国語審議会で、外来語の交通整理を検討することになったという。ここでいう交通整理とは、一般人に使用を押しつけるものではなく、あくまで、官公庁や報道機関に対して意思疎通をはかる目的で行われるもののようだ。「日本語全体が乱れてしまう」という理由も付せられると、何らかの表記の制約が課せられるような印象も受けてしまうけれど。

 6/11の朝日新聞によれば、12月の最終答申に向けて検討されている指針・素案の中で、
  • 「ボランティア」、「リサイクル」、「ガイド」、「ストレス」などはすでに 定着している
  • 「アカウンタビリティ」は「説明責任」に、「インセンティブ」は「誘因」「刺激」「報奨金」に、「ユーザー」は「利用者」に、「コンセンサス」は「合意」というように言い換える
  • 「ハードウェア」、「バリアフリー」、「アイデンティティー」は注釈をつける
というような語例が上がっているという。ここにあがった例については私もほぼ同感だが「ユーザー」はすでに定着しているように思える。「インセンティブ」というのは行動分析的に見ればきわめて曖昧な用語であり、「弁別刺激」、「確立操作」、「好子(正の強化子)」というようにはっきり分けて記述すれば効果の及ぶ範囲や操作可能な部分がいっそう明らかになるように思う。

現在形しかない言語

 6/11の朝日新聞天声人語で『アマゾン、インディオからの伝言』(南研子[けんこ]著、ほんの木)が紹介されていた。それによれば、アマゾンの先住民の中には、「幸せ」、「不幸」、「寂しい」といった概念が存在しない生活をしている人たちがいるという。また、ある部族の言葉には過去形も未来形もなく、現在形しかなく、昨日を悔い明日を憂うということが無く、すべてが「いま」に集約され、密度の濃い時間が流れるという。「生きがい」の基本が「いま」だけにあるということは私も常々主張していくことであるけれど、本当にこういう生活があるのかどうか、さっそく本を注文してみたいと思う。

 余談だが、同じ日の別の記事によれば、自民党の亀井政調会長は10日の大阪府内の街頭演説の中で「過去にけんかしたことにこだわるのは、百姓町人のやること。われわれが侍とまでは言わないが、....」と発言したとか。問題発言の多さでは、森首相や石原都知事も顔負けか。
【今日の畑仕事】

梅の実収穫。ビワ初収穫。
【スクラップブック】