じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa


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[今日の写真] ハクチョウソウ。「白鳥」ではなく「白い蝶」という意味で名付けられた愛称のようだ。確かに、逆立ちすると、雄しべが触覚、花びらが羽根のように見える。こちらのようなピンクの「白」蝶草もある。正式にはヤマモモソウあるいは学名由来でガウラと呼ぶらしい。



6月4日(日)

【思ったこと】
_00604(日)[心理]しごと、余暇、自由、生きがいの関係を考える(その4):「相手を活かす迷惑」とコミュニケーションの定義

 6月2日の日記の続き。最初に、前回の日記の副題で“「よい迷惑をかけあう」という発想”と書いたことについて、Island LifeのShiroさんが6/2付の日記の中で
  • 「良い迷惑」(6/2) なんてものはあるのかなあ。衝突があって、その衝突が ネガティブに受け取られたら「迷惑」、ポジティブに受け取られたら「刺激」と 解釈されるだけのように思える。
  • .....「人に迷惑をかけてはいけない」という場合の多くは、 自分の基準を中心にした「迷惑」を無批判に他人にも適用しているだけなんではないか。傲慢だと思う。
  • .....もし、その人が目的を実現するための手段が、世間一般のマナーとしては迷惑だと 考えられていることであったとして、常識を理由にその人の目的を潰すようなことが あれば、私はそちらの方が罪が重い(あくまで私の中で、ね)と思う。
  • 極端な話、 何も生み出さず、何のコミットメントも持たずに生きている人は、それも一つの生き方だから否定しないけれど、邪魔にならないところにどいててね、ということだ。
[長谷川のほうで要約]
と書いておられたので、本日はこのことについて私の考えを補足させていただくことにしたい。

 Shiroさんが指摘された点はいちいちもっともなところがあるけれど、私が使った「良い迷惑」というのは、「相手を活かす迷惑」という意味。これも結果次第の話なんで、迷惑を及ぼしている時点では、それが相手を傷つけたり相手の夢をつぶすだけのものなのか、結果的に相手を活かすことになるのかを事前に推し量ることはできないのだが、いずれにせよ、「give & take」や報恩主義とは異なる何らかのポジティブな「迷惑」があるかもしれないというのが前回の日記で言いたかったことだ。

 例えば、以前何かのニュースで聞いたことがあるけれど、体が元気なうちに自分よりもっと高齢のお年寄りの介護に参加し、これをポイントとして貯めておくという「互助会」のようなシステムがあると聞いたことがある。この場合、すでに介護を受けているお年寄り自身はもはやポイントを稼ぐことはできない。いま介護に携わっている人たちが介護を受けるのは、その次の世代の新入会員たちである。このシステムであれば、「人に迷惑をかけたくない」と思って生きてきた人たちでも、「私は、過去○年間にわたって自分より高齢の方々の介護をしてきたのだから、自分が介護を受けても当然。」という論法で遠慮なく介護を受けることができる。これは基本的には「give & take」、(時間的にみて「逆行性」の)報恩主義、あるいは借金相殺の発想ではないかと思う。

 これに対して、「相手を活かす迷惑」の場合には、ポイントがあっても無くても介護を遠慮なく受けることができる。いちばんの違いは、被介護者が一方的に何かをしてもらうのではなく、被介護者と介護者の間の双方向の「活かしあい」を前提としているということだ。

 もちろん、相手を活かす機能が確認された時点で、もはやそれは定義上「迷惑」とは言えない。『新明解』によれば迷惑とは
迷惑:その人のした事が元になって、相手やまわりの人が、とばっちりを受けたり、いやな思いをしたりすること[古語としては、どうしたらいいか分からなくて自分が困る意]
とされているからだ。「良い迷惑」というのは「表面的な迷惑」と「本質的な活かし」を同時に表す表現と言ってもよいかもしれない。

 もっとも、この「活かしあい」が成立するためには、完全に独立した存在としての個人観に代えて、ある種の関係性の中に個人をとらえていくという姿勢が必要となる。これは、この連載の中心的なネタ本となる内山節氏の主張にも共通するところがある。4月21日の日記に紹介したように、近代思想は、個人を固有のものとして、つまりすべての関係性を断ち切っても、なお個人という実体が存在すると考えた。内山氏の立場はこれに対して、その関係をすべて失ってしまったら、私という個人もまた成立しえないという考えが土台になっている[p.327]。

 それから、私は「活かしあい」は「癒しあい」とは違う意味で使っている。もっと能動性が高く前向きのものを想定しているのだが、時間が無いのでこれについては別の日にまとめてみたいと思う。

 ここで突然話題が変わるが、「相手を活かす迷惑」のことを考えているうちに、だいぶ前に翻訳した本にあった動物コミュニケーションの定義のことを思い出した。

 ハリデイとスレイターの本に引用されているMarler(1967)の定義によればコミュニケーションの本質的特徴は
参加者間の共動的な“相互作用”synergistic interplayであり、双方がそのやりとりの効率を最大限に高めようと努力していること[『動物コミュニケーション--行動のしくみから学習の遺伝子まで』、ハリデイ・スレイター著、浅野・長谷川・藤田訳、1998年、西村書店]
であるという。もっとも、異種間のコミュニケーションのなかには、はぐらかしディスプレイや擬態のように例外的なものもあるという。ピアスの本に引用されていたSlater(1983)によれば、コミュニケーションは
1匹の動物から別の動物への合図の伝達であり、概して受けての反応によって送り手が得をするような性質のもの[『動物の認知学習心理学』、ピアス著、石田・石井・平岡・長谷川・中谷・矢澤共訳、1990年、北大路書房]
Slater(1983)が「概して送り手が得をする」と特徴づけたのは、受けてが常に得をするとは限らないという事例をとりこむためであったようだ。

 こうした動物コミュニケーションの事例が人間社会の双方向の働きかけの理解にどこまで役立つのかは定かではないが、生物的に裏付けのあるものはそれだけ堅固で安定しやすく、裏付けの無い場合には人工的な環境整備が必要になってくるという目安にはなるかと思っている。
【ちょっと思ったこと】


日記猿人累計得票3万票達成御礼

 日記猿人累計得票(読み込みに時間がかかる方は、こちらの縮小版をごらんください)によれば、この「じぶん更新日記」への累積の得票数が2000年6月4日朝の時点で3万票を超えた。これまでご支援くださった方に深く感謝します。

 日記猿人に登録してから3年ちょっとということなので、1カ月あたり830票をいただいたことになる。日記猿人参加者の中には、彗星のように現れ多くの読者を魅了しながら、忽然と執筆がうち切られる日記というのもある。この日記にはそうした派手さはない(「彗星日記」とか「続彗星日記」というタイトルの日記だったら書いていたこともあったけれど。がはははは)。規則性と継続性だけが取り柄みたいなものだ。これだけ長期間継続ができたのは、何と言っても「読んだよ!」という励ましがあればこそ。今後ともご指導ご鞭撻をよろしくお願いします(←あっ、衆院選挙に出るわけではありません)。
【今日の畑仕事】

ブロッコリーと苺収穫。草取り。来年播種用のエンドウの種収穫。
【スクラップブック】