じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
チチコグサ。文学部南側の芝地に群生していた。地味な花の代表だが、これだけ増えると壮観。。 |
【思ったこと】 _00531(水)[心理]しごと、余暇、自由、生きがいの関係を考える(その2)企業労働はなぜ最高の生きがいの場とならないのか 4月30日の日記の続き(初回は4月21日の日記)。5月の連休中に取り上げる予定だったが、バスジャック事件発生などのために他分野に話題が拡散しとうとう1カ月もぷろくら(先延ばし)になってしまった。間隔が開いてしまったので、この連載で中心的に取り上げる内山節氏について、もうすこし紹介を加えさせていただく。 ネット上で検索したところでは、内山氏の著作は約30冊。労働過程論に関する初期のものもあるが、最近では『自然と労働』(1986)、『時間についての十二章』(1993)、『子どもたちの時間』(1996)など、自然とのふれあいや自由や時間の意味を論じた書物を公刊されている。農山村で行われる体験企画やナショナルトラスト等の講演会にも招かれているようだ(gooでヒットしたものをいくつか挙げれば群馬県、全国植樹祭、東京都青年の家、ナショナルトラストなど)。 哲学者と言うと、デカルト、カント、ヘーゲルといった偉大な哲学者を柱にした文献資料中心の研究を思い浮かべてしまいがちであるが、この内山氏の場合は全く違う。行動し実践する哲学者と言ってもよいかと思う。 この書の内容は、近代的自由の本質、時間と自由、循環系社会、社会主義崩壊、人間的知性と不自由など多岐にわたっているが、この連載のテーマである生きがい論との関係で言えば、現代的労働の動揺について論じた第六章と、企業と人間の関係を論じた第八章が大いに参考になるように思う。 さて、この書の最大の意義は、 働くことはなぜ最高の生きがいの場とならないのか という、現代人の多くが懐く疑問に対して、1つの明解な解答を示しているところにある。そもそも、労働は賃金、売り上げ、完成といった諸々の好子によって強化されるものである。とすると、労働自体はスキナーの生きがいの定義: 生きがいとは、好子(コウシ)を手にしていることではなく、それが結果としてもたらされたがゆえに行動することである[行動分析学研究、1990, 5巻, p.96. 佐藤方哉訳を長谷川が一部改変] に完全に一致するはず。にも関わらず、そして奴隷や囚人でないにも関わらず、我々が労働を時として義務的に感じ、休息や趣味に興じることに生きがいを見いだしがちであるのはなぜだろうか。「労働の自由」ではなく「労働からの自由」を求めるようになってしまったのはなぜだろうか。 内山氏は、これについて次のような原因を挙げている[以下、いずれも長谷川による要約]。
このうち特に2.に関して、内山氏は、日本の風土的伝統の中で、「幸せな労働」が、「自分自身の腕や知恵の向上」と「社会的貢献」という形で結びついてきたこと、ヨーロッパでも一般的な庶民の労働観に限れば同じ感覚があったことを強調しておられる[六章、108頁]。企業労働に生きがいを見出せない人々が、教養講座や仕事と直接関係のない資格取得講座を受講することで「自分自身の腕や知恵の向上」をめざし、ボランティア活動を通じて「社会的貢献」をめざすというように、労働の外の世界に幸せの場を求めていることはこれを傍証するものと言えよう。 以上に紹介した内山氏の考えは、賃金というような断片的な好子を付加的に随伴させるだけでは生きがいをもたらす労働が保障されないことを明確に指摘していると言えよう。じつは、こうした考え方は、スキナー自身の講演の中でも主張されてきた。スキナーは 産業革命は労働者の働きがいに大きな変化をもたらしました。...【産業革命以前の職人たちの場合は】仕事のどの段階においてもすることの一つ一つが何らかの直接的な結果によって強化されていました。ところが産業革命以後は、仕事が細分化されその一つ一つが別の人たちに割り当てられるようになったがために、金銭以外の強化子はなにもなくなってしまいました。行動のもたらす自然な結果というものがなくなってしまったのです。マルクスの言葉をかりれば、労働者はその生産物から疎外されてしまったのです。...労働と最終生産物の関係を明白にすることも大切です。[行動分析学研究、1990, 5, p.91〜92. 佐藤方哉訳から抜粋] と指摘している。内山氏は、この視点に加えてさらに労働の社会的役割(=社会的好子)、自己の向上(=行動の精緻化とリパートリーの拡大がもたらす行動内在的な好子)、そしてそれらを保障する風土的伝統というものにも目を向けさせてくれる。次回以降に続く。 |
【ちょっと思ったこと】
ケナフの功罪 6/1の朝日新聞「疑問を解く」欄でケナフの功罪が取り上げられていた。「環境に優しい」を合い言葉に全国でケナフ普及活動がくりひろげられ、今年10月には「国際ケナフシンポジウム」が広島で開催されるという。現在全国に25のケナフの会があり、会員は約5000人に上るという。ケナフの最大の特徴は生育時に大量の二酸化炭素を吸収すること、また、その茎から繊維を取り出して紙の原料にすれば森林の保護にもつながるというものだ。 これに対する異論としては、
ケナフについては99年5月3日の日記で 【ケナフ普及活動は】ケナフの栽培自体で温暖化を防ぐというよりも、それから紙、布、キノコ菌床を作ることで森林資源を保護しようという啓蒙的な効果を狙った運動であるように見えた。と述べたが、この考えは今も変わらない。割り箸のリサイクル化、ペットボトル問題なども同様で、政策上はリサイクルに投入する総エネルギーやそのために新たに必要な資源を最小化する方向が求められる。その一方で、多少コストはかかっても、環境問題に関心を向けさせる啓蒙活動の一環としての普及運動、再利用運動には別の意義がある。 ちなみに上記の帰化の可能性であるが、北風があたりにくい南向きの空き地の一角に私が植えたケナフは秋になって完ぺきに結実した。そのあとずっと放置していたところ、その周辺に種がこぼれ4〜5株が発芽した。種の数の割に少ないとはいえ、こうした暖地では人の手をかけなくても野生化していく可能性があることを示唆していると言えよう。 新聞記事でも指摘されているように、環境問題の解決に「万能」となるような植物など存在しない。無批判に「ケナフ神」を賛美する傾向があるとすればこれも問題、クリティカルな目で環境問題をとらえていく必要があるだろう。そういう意味では、環境問題を考えるきっかけとしてケナフを育てることは良しとしても、その後は、一種類の植物の栽培にこだわるよりもむしろ、在来の環境における生態系の役割を考えるとか、水資源問題をも考慮しながら水田の役割を考えるとか、干潟の汚水処理能力を考えるといった方向に目をむけていく姿勢が求められるように思う。 |
【今日の畑仕事】
雨のため何もできず。 |
【スクラップブック】
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