じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa


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[今日の写真] 岡大・東西通りのハナミズキ。この通りには、大学の敷地に接して、岡大東門、岡大西門、福居入口、福居という4つの停留所があり、その区間の南側にはずっとハナミズキが植えられている。ハナミズキの花は肉眼で見るよりも彩度、明度が低く、晴天の昼間に写真に撮ると黒っぽく写ってガッカリすることが多い。この写真は曇りの日の日没前後に東方向に向けて撮影したもの。




4月25日(火)

【思ったこと】
_00425(火)[教育]最近の大学教育論議でおもふこと(19)科研費優先主義?の弊害(3)原因帰属理論からみた採択審査結果の解釈

 4/20の日記の続き。過去2回の連載では、現行の科研費の採択審査は必ずしも透明とは言えないということを指摘してきたが、先日の上京中に何人かの心理学の先生方にこのことについて意見を聞いてみた。

 その中で比較的共通して返ってきたのは
ボクとこは毎年貰っているよ。どこが問題なの?
という感想だった。もちろんどの先生も審査の不透明さについては感じておられるようだが、とにかく、自分が貰っている以上、悪い制度とは言えない。何かをいぢることで貰えるものが貰えなくなるようなことでは困るという本音があるように思った。じっさい、4/19の日記で主張した
採択され配分された科研費が本当にその研究テーマどおりに支出されたのかどうか、成果が十分にあげられたかどうかをきっちりと監査・評価する機関が必要。
については、原則賛成でも、そういう監査が厳格に行われると研究機器の柔軟な活用が難しくなり、また監査の応対のために雑用が増えて結果的に研究活動の停滞を招くとの反対論が出てくるように思える。

 ところで、昔ながらの原因帰属理論を(かなりエエ加減に、かつ拡大解釈的に)借用すると、科研費が採択された場合、あるいは不採択になった場合、研究者はつぎのいずれかに原因を帰属させるように思える。
  • 採択された場合
    1. わたしの研究計画内容は価値の高いものであり、その意義が社会的に認知された[=「課題に特定した努力」に帰属]。
    2. わたしは博士の学位があり有名大学の教員で学会の有力者であるため、不採択にされるはずがない[地位能力累積的な努力」等に帰属]。
    3. 科研の審査なんてエエ加減なものだ。今回は運がよかった[運の良さ」に帰属]
    4. わたしは○○教を信じている。これは神様の恵みだ[神仏に帰属]
  • 不採択になった場合
    1. 今回の研究計画書は内容が不十分だった。審査者を説得できるように内容を整備充実させなければなるまい「課題に特定した努力不足」に帰属]
    2. 研究計画自体は十分に意義があるが、審査制度に不備があるため採択されなかった[審査システムの矛盾に帰属]。
    3. 科研の審査なんてエエ加減なものだ。今回は運が悪かった[運の悪さ」に帰属]
    4. わたしは○○教を信じているが信仰が足りなかった。これは神罰だ[神仏に帰属]
 これを、かなりエエ加減な「達成動機」理論にリンクして考えるならば、採択された場合には1、不採択の場合も1に原因を帰属させる研究者は、自己鍛錬を重ねて研究活動を発展させられる可能性が高い。いっぽう、採択されても2.〜4.、不採択の場合に2.〜4.のように原因を帰属させる研究者は発展が望めないということになる。もちろん行動分析的な視点からも、ルール支配行動のレベルで「どういう行動がどういう結果によって強化されるか」の違いとして説明することができる。

 となれば、研究者個人のレベルで見るならば、採択、不採択いずれの場合も1.に原因を帰属させることが望ましいと言えるが、裏を返せば、その限りにおいては制度の矛盾を指摘したり改善を求めるような声は決してそういう集団の中からは上がってこないということにもなる。そのことが最初にも述べた
ボクとこは毎年貰っているよ。どこが問題なの?
という発想に繋がることになるのだ。

 この連載は3回完結にする予定であったが、4/21〜4/23の上京中に毎日の記録(4/20)さんやちはるの多次元尺度構成法(日記)(4/21)さんから関連するご意見をいただいているので、それをふまえて、もう少し続編を書き続けることにしたい。

 なお、念のため私自身の科研費の申請・ 受給状況を記しておけば
  • オーバードクター時代の終盤、日本学術振興会・特別研究員の第一期生として科研費を受給。
  • 就職後、若手のための奨励研究を、年齢制限に引っかかるまでの間毎年受給。
  • その後はずっと申請せず。
 科研費をずっと申請しなかったのは、その後研究テーマが変わり、高額な実験機器購入のために申請をしなくても研究活動が維持できたことにある。しかし来年度から研究費が1/3に減額されるということになれば、到底やっていけない。在外研究員などのかねあいもあるが、来年度からは原則として毎年申請することになるかと思う。
【ちょっと思ったこと】
  • 八百長否定と血液型性格判断のレトリック

     4/26の朝日新聞によれば、日本相撲協会は25日、元小結の板井圭介氏の八百長発言問題で記者会見し、板井氏の今回の発言と過去の発言との不一致があることから板井氏の発言には信憑性が無いというロジックに基づき、八百長を間接的に指定したという(こちらに関連記事あり)。

     公開されたのは、1996年5月に板井氏の師匠だった元鳴戸親方(元関脇高鉄山)による八百長発言問題に関連して同協会が小学館などを相手に名誉棄損で刑事告訴した際の陳述書。この陳述書の中で板井氏は、八百長を完全否定した陳述を行い署名捺印をしている。今回の相撲協会の主張は、4年前に八百長を否定した板井氏が今回このような発言をしても信憑性に欠けるというものであった。

     これは、一口で言えば「AはBである」と発言した人の発言内容に一貫性が無いことを指摘し、その信憑性の無さから「AはBである」自体を否定しようと言うレトリックであると言えよう。しかし、発言者に一貫性が無いという理由だけでは「AはBである」を積極的に否定したことにはならない。まして発言者が、過去の発言内容をひるがえしその反省の上に立って「AはBである」と証言した場合には、逆に信憑性が出てしまう恐れもある。

     このことでちょっと思い出すのは、血液型性格判断をめぐる論争だ。肯定論であれ、否定論であれ、相手方の信憑性の無さを指摘しただけでは自説を証明したことにはならない。現在刊行されている血液型人間学関連の書物をいくら否定したとしても「血液型と性格とはゼッタイに関係が無い」とは言えないし、逆に、血液型人間学等に反論する心理学者の見解をいくら攻撃したところで既存の血液型性格判断が正しいという証明にはならない。今年の「心の科学」の授業(第2回)でも話をしたように、既存の血液型性格判断を否定するのは、ゼッタイに関係が無いことを主張するためではない。
    まず「関係が無い」という作業仮説から出発し、それが明確に否定された時に、その対象に限って具体的にどういう関係があるのかを論じ、体系的に知識を積み重ねていく姿勢。
    を強調しているにすぎず、あとは、理論に対する要請の強さや有効性、有用性によって決まってくる問題であるという点を忘れてはなるまい。


【今日の畑仕事】

多忙のため何もできず。
【スクラップブック】