じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa


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[今日の写真] ラベンダー畑と言いたいところだが、農学部農場の休耕地にホトケノザ(サンガイグサ、春の七草のホトケノザとは別種類)がはびこったもの。


3月20日(月)

【思ったこと】
_00320(月)[教育]『受験勉強は子どもを救う』か(7)要領のいい人

 3/15の日記の続き。今回は、和田氏の「第2部:受験勉強は人生に役立つのだろうか」に関連して「要領のよい人」ということについて考えてみたい。前回の日記で引用したように、和田氏は、ただがむしゃらに努力するだけの受験勉強を決して推奨していない。
..入試の本質とは、単に学力を見るものではなく、自分の能力を把握したり、出題傾向から何を勉強すればよいかと読み取って分析したり、そこから生まれた計画をきちんと実行して自分を律したりといった能力を見るものである[185〜186頁]
としているのだ。つまり、ここでいう受験勉強とは、親や学校の先生の言われるままに志望校を選択したり、言われた通りの課題をこなすことでは決して満たされない。明確な志望動機があり、その上で主体的に道を切り開く力を磨くべきだと言っているのである。

 和田氏はさらに、ベストセラーになった『受験は要領』という著書の要領の意味について
...その要領とは、情報処理能力や、決断や割り切り、スケジューリングのことである。これは受験だけの要領ではない。ここで身につけた能力を社会で活かすことができれば、人生の要領となりうるし、このような要領をみにつけた人間がたくさんいるということは、日本という国の今後のために、損のないことだと私は信じているのだ[193頁]。
としている。『新明解』によれば、「要領のいい人」というと「手際がいい人」という意味のほかに
表面的にはいいように見せかけ、実際の作業は手を抜くことのうまい人
というマイナスのニュアンスが含まれているが、和田氏が主張する要領はむしろ
努力を有効な方向に配分する力
ということになるかと思う。

 上記の、スケジューリング、つまり、試験日までにどういう手順でどれだけのことを達成するかという、目標設定と課題遂行についての要領の良さのほか、試験当日、与えられた時間の範囲で、最大限に努力を発揮するための要領のよさというのも大切。いずれも、「頑張ったけれど時間が足りなかった」という言い訳は通用しない。「時間を最大限に有効に活かす」というのも公共的な性格を帯びた努力では不可欠の要素になっているのだ。

 ところで、こうした要領の良さというのは、何も受験勉強だけに求められるものでも無かろう。各種のスポーツでも、ただがむしゃらに練習量を増やしてもスキルは上達しない。どこに自分の持ち味があるのか、どういう弱点を直せばよいのか、これを的確に判断しながら、練習という努力を有効な方向に配分することが大切なはずだ。もちろん、これは、将来の職業選択、仕事の遂行、人生設計全体についても言えることだ。

 昨今、AO入試の導入の理由として、「明確な志望動機」なるものが挙げられることがあるが、願望としての志望動機が高いだけでは、課題の遂行には決して結びつかない。今回とりあげた要領の良さとは、まさに、「明確な志望動機を達成するために努力をどのように有効に配分するか」という意味。入試で問うべきものが、願望の強さではなくそれをどう実現できるかという遂行力のほうにあるとするならば、それを測るためには、やはり学力試験や実技試験のような何らかの作業検査を含めることが必要であろうと私は考えている。

 最後に、繰り返しお断りしておくが、ここで取り上げている入試制度というのは、センター試験の合計点だけで一律に合格者を決めてしまおうというような画一的なものではない。和田氏自身、例えば、入試を9月、1月、3月の3回に分けて実施し、その合計点で判断する入試などもありうるとしている。一芸入試についても、受験が楽だからという不純な動機の生徒が集まるようなものはダメだが、大学側が入学後の最低線のレベルをきっちり想定しフォローアップ体制を確立した上で必要最低限の科目にしぼって入試を行う利点については必ずしも排除しているわけではない。
【ちょっと思ったこと】
  • 3/18の日記でトロンに関係して取り上げたキーボードの配列について、Eメイルや掲示板でいくつか情報をいただいた。すずきさんからは、
    キーボードについて、特に QWERTY 配列について、なぜ、これが生き残ったのか、ということは、グレン・グールドのエッセイ(たしか、がんばれ雷竜、だったかな) に記載されています。
    後で出典を調べてみたいと思います。
    ※3/22追記]上記の「がんばれ...」という本について、うえだたみおさんから、以下のような情報をいただいた。
    ええとこれは、正確には、生物学者スティーヴン・ジェイ・グールドのエッセイ集『がんばれカミナリ竜』上巻(早川書房)です。第4章の「テクノロジーにおけるパンダの親指」で言及されています。
    どうもありがとうございました。さっそく和書検索をかけてみたのですが、残念ながら上巻はヒットしませんでした。ひょっとして絶版?


     trexさんからは
    QWERTY配列は元々タイプライタのキーに対応した活字同士がぶつからないようキー入力を遅くするために考案されたもの。
    DVORAK配列はコンピュータ出現後に考案された入力効率を上げるためのもの。
    プログラマにとってはキーボードが命だと思う。
    という情報をいただいた。
     このtrexさんのコンピュータ出現後に考案されたという件だが、私が知っている限りでは、DVORAK配列自体は1972年の“The tyanny of qwerty.”(Saturday Review, September 30)にすでに紹介されており、今のようなパソコンが普及するよりもかなり以前、おそらく電動タイプライターの高速化に伴って検討されたものではないかと思う。

     それゆえ、事務文書一般や文芸作品の英文入力には適しているとしても、果たしてプログラマが使う特殊な文字列や記号の入力についても合理的な配置になっているかどうかは少々疑問に思う。

     いずれにせよ、少なくとも今のパソコンユーザーは、キーボード以外にマウス(あるいはトラックボール、ポインティングディバイスなど)をセットにして使うことが殆どであり、大多数にとって合理的であるような標準仕様を策定する場合には、(右利きの場合は)右手がキーボード以外の操作もできるような配置を検討する必要があるかと思う。それを含めた上での決定的な決め手が無いことが、相変わらず、「QWERTY 配列+ローマ字入力」を存続させている一因になっているのではないだろうか。
【今日の畑仕事】

チンゲンサイを大量に収穫。ジャガイモ植え付け。
【スクラップブック】