じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] 高くそびえる?鉄砲百合。高さは2m近くあり、青空に映える様子が梅雨明けの気配を感じさせた。右後ろは文学部。余談だが、写真日記の長谷川博士さんが「白い花は写真に撮りにくいですね」と書いておられたが(7/20)私も同感。明度のコントラストが強すぎて、絞れば全体が暗くなるし、対象が浮き立たない。逆に明度を上げるとデジカメの場合は白色が最大明度になってしまって細かな模様が写らなくなる。そのほか、紅梅とかハナミズキも難しい。こちらの場合は、ホントは人の目で見るほど鮮やかでないという理由によるものかと思う。


7月20日(火)

【思ったこと】
990720(火)[心理]ルール支配行動から生きがいを考える(7):楽しみを増やす方法(その2)

 昨日の日記の続き。昨日の日記では、食物、水、適温、空気、性的興奮などの生得性好子が結果としてもたらされたがゆえに行動することは、必ずしも現代人の健康に有益にならないばかりでなく、飽和化が起こりやすく刹那的な快楽主義に陥りやすいことを指摘した。

 この飽和化はどんな金持ちでも避けて通ることができない。というか、むしろ何でも楽々と手に入れることができる人のほうが、物余りによって飽和化が起こりやすい。そこで、これを避けて楽しみを持続させるには、次のいずれかの道を選ばなければならない。現実には生得性好子をそんなに楽々と手に入れることは不可能であるけれど1つの思考実験として大富豪か貴族になったつもりで考えてみよう。
  1. あくまで生得性好子を主体に楽しみを追求することを前提に、飽和化を避ける工夫をする。
  2. 多様な習得性好子(=一般に「価値」と呼ばれるものを含む)を形成することで、その裏付け好子となるような生得好子への飽和化を避ける。
 きょうは時間の関係で、1.についてのみ述べることにしたい。いずれも事例としては食物が好子となる場合を中心にとりあげていきたい。

 では1.を前提としつつ生得性好子への飽和化を避けるためにはどうしたらよいだろうか。論理的には少なくとも次の4つの方法が可能だ。
  1. 生得性好子の出現機会を一時的に断ち、確立操作(=「遮断化」に相当する)によって好子の強化力を高める。
  2. 生得性好子が生理的に求められるように体を変化させる。
  3. 複数の生得性好子をローテーションさせることによって、単一の生得性好子への飽和化を避ける。
  4. 生得性好子を出現させるまでのプロセスをあえて困難にし、そこ(=好子出現という「目標」)に到達するまでの行動とそれに内在する結果によって楽しむ
 1番目の方法は、あえて断食をするなど、意図的に生得性好子への接触機会を断つこと。夫婦間の接触(日常会話であれセックスであれ)も、毎日顔をつきあわせているよりも単身赴任で時たま顔を合わせたほうが感激が大きいのは遮断化の効果であると考えられる。もっとも単身赴任には別の苦労もつきまとうからそれ故にオススメというわけにはいかない。

 2番目の方法は、激しく運動するなどして、食物や飲み物への生理的なニーズを高めること。厳しい練習のあとや山登りの最中に食べる食事が美味しく感じられるのは結果的にこうした確立操作をみずから行ったためと考えられる。

 3番目の方法は、例えばラーメンの味を楽しもうとしたら、毎日ラーメンばかりを食べず、週に6日は和食や洋食をとるようにローテーションさせること。これによって飽和化が解消し、より美味しいラーメンを食べることができる。ローテーションは、こうした食事のメニュー内ばかりでなく、質的に異なる生得性好子の間でも可能だ。基本的には1番目の方法と同様だが、遮断化の期間に我慢せず、別の生得性好子を受け取っておこうというようなもの。但しそれなりの資金が無ければ実現できない。

 4番目の方法は、例えば手間ヒマかけて料理を作ったり、釣った魚を料理したり、家庭菜園で穫れた野菜を楽しむことなどが相当する。これは2月12日の日記の指摘:
価値は、物そのものではない。行動と一体となって生み出されるものである。
と一致する考え方である。山登りでもそうだが、ロープウェイなどであまりにも簡単に頂上に達してしまうと感激はうすいものだ。18日の日記で述べたように
目標を達成した瞬間にはもはや「それが結果としてもたらされたがゆえに行動すること」は中止される。
生得性好子が獲得された瞬間というのはある意味では飽和化の始まりになる。よく「楽しみは先にとっておく」という人が居るが、これは実は「最終結果の出現を先延ばしすることで、そのプロセスに付随する行動内在的な結果を楽しんでいる」ことにすぎない。

 次回は、習得性好子に関して「楽しみを増やす方法」を考えてみることにしたい。
【ちょっと思ったこと】
  • 岡山大学セクシュアル・ハラスメント防止委員会発行の「セクシュアル・ハラスメントのない大学にするために:快適な教育・修学・就労環境をめざして」というパンフレットが配布された。カラー4面の豪華版で、セクハラの定義、なぜ問題なのか、どういう言動がセクハラになるか、気をつけるべき点、セクハラを受けた場合の対処法について、イラスト入りで分かりやすく解説されていた。

     まず、セクハラの定義としては相手を不快にさせる言動、“相手方の意に反する性的な言動を行い、それに対する対応によって、相手方の修学、就労、教育または研究を行う上で利益または不利益をあたえること、またはこれらの環境を悪化させること”とされている。またその対象は、職員や学生だけでなく、委託契約などで働く者や、勤務時間外や大学外も含むとされていた。

     セクハラになりうる言動はおおむね常識的に妥当なものだと思うが、そんななか
    • パソコンのディスプレイに卑猥な画像を表示する。
    • 【性別により差別しようとする意識等に基づいて】成人に対して「男の子、女の子」、「僕、坊や、お嬢さん」、「おじさん、おばさん」などと人格を認めないような呼び方をする。
    • カラオケでデュエットを強要する。
    なども含まれていた。1番目のパソコンのディスプレイ云々だが、常識的には大学の事務室や計算室や図書館等で卑猥な画像を表示することはあり得ない。深夜に自宅のパソコンで表示するのもイケナイという意味なんだろうか。

     「女の子」とか「おじさん、おばさん」はごく普通の呼称。たぶん使用する文脈によるのだろう。例えば公的な会議の席上で女性教授を「おばさん」と言えば大問題になるだろうが、同じ教授が近所の子どもにおばさんと言われても怒り出すことはあるまい。

     カラオケを強要することについてはしばしば問題となるが、本人が恥ずかしがって出ないのをどの程度まで勧めてよいものか判断が難しいところだ。カラオケ大会で自薦ばかり募っていると「ドラえもん」に出てくるジャイアンみたいな歌い好きばかりが出てきて場が白ける。
【生活記録】
【今日の畑仕事】
  • トマト4個、ミニトマトいっぱい、インゲンいっぱい、キュウリ2本、ピーマン、オクラを収穫。夜、白くて大きな夕顔の花を見る。
【スクラップブック(翌日朝まで、“ ”部分は原文そのまま。他は長谷川による要約。)】