じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] 自宅アパートから車で20分ほどのところにある岡山の「桃源郷」。ここに咲く花はみな実を採るための桃の花。今が見頃だ。数日前の夕刻、夫婦で見物に行った。


4月15日(木)

【思ったこと】
990415(木)[心理]生きがい本の行動分析(2):著者名を取り替えただけかも

 長いことサボってしまったが1月31日の続き。じつは今年度の大学院の特講では、雑多に収集した市販の「生きがい本」に記された様々な言語的強化を行動随伴性に基づいて分類する作業を行うことになった。ここではその基本的な枠組み示してみることにしたい。

 さて、前回の日記の終わりのところで
次々と登場してくる「生きがい本」が、一定の人気を博し、数ヶ月から数年のうちに忘れ去られていくのは何故か。常に流行の域を出ず、究極の生きがい本とならないのは何故だろうか。私はこれは、本というものの限界であろうと考えている。仮に究極の生きがいのようなものがあったとしても、それは個々人が実際 に行動しなければ獲得されない。本が与えられるものは、「こうすればこうなる」という随伴性のルール、あるいは「こういうものは素晴らしい」という条件性強化、「こういうものを気にするのはやめよう」という消去の教示にすぎない。とはいえ、そういう本を比較していけばそこに共通する言語的強化やルール支配行動が浮かび上がってくるものと期待される。
と述べた。その後、春休みを利用して何冊かの本を通読してみたが、読めば読むほどこの見通しを確信するようになった。そして、読んだ本がたまたま偏っていたせいかもしれないが、「励まし」の中心をなす所にはそれほど大きな差違は見あたらなかったことに驚く。少々悪く言えば、「生きがい本」の雛形が最初から出版社側に用意されていて、これまでに出された本の売れ行きが落ちると著者名を取り替え、多少はその著者オリジナルの記述をトッピングして、話題性を持たせて別の本として売り出す、....この繰り返しではないかという気もしてくる。

 このような印象を受ける最大の原因は、学術書と違って文献の引用が曖昧であるために、筆者のオリジナルの考えがどの部分なのか、どの部分を別の本の記述から「借用」したのか、判別がつなかないことにあるように思う。もっとも、もし私の主張が正しく、生きがいの根源が行動随伴性にあるとするならば、そんなに斬新な着想が生まれるはずがないという気もする。人類が別の種に進化するか、地球環境が劇的に変わらない限り、人間の行動の質にも、それに対して与えられる結果の質にも、そんなに新しいものが見いだせるハズがないからである。
海岸の砂浜で珍しい貝殻を掘り出した人が、これは自分が独自に見つけたものであると本に書く。後日、別の人が隣の海岸で同じ貝殻を掘り出して、別の本で自分がみつけたことを同じように書く。執筆者はみなオリジナリティを強調するが、もともと地球上に生息するものなんだから目新しさにも限界がある。生きがい本の記述もそんなものかもしれない。
 では、「生きがい本」に記された様々な言語的強化を分類することによって、何が新たに分かるのか? ということになるが、時間が無くなったので次回以降に続く。
【ちょっと思ったこと】
  • 転入されてきた先生方の歓迎会を終えて家に戻ったところ、家族がテレビせとうち(TV東京系)の「永遠のアトム・手塚治虫物語」を見ていた。これでふと思ったが、私は、手塚治虫のアニメは、TV用の「鉄腕アトム」を除いて殆ど見ていないことに気づいた。そんななか、1つだけ強く記憶に残っているのが「展覧会の絵」というアニメ映画。これは文字通りムソルグスキー作曲・ラベル編曲の「展覧会の絵」をアニメを見ながら鑑賞するという作品で、ファミリー向けの何かの映画と二本立てで上映されたものであった。曲の進行に合わせて、造花でできた人工植物の花畑に迷い込んだ昆虫の悲劇を描いた場面、卵から雛が孵って動き回る場面、僧侶が瞑想するユーモラスな場面などがあったと記憶している。正確には手塚作品ではなく虫プロ作品であったと思うが、ビデオ化されていたらぜひもう一度見たいと思っている。
【生活記録】
【5LDKKG作業】
  • 昼食前に二十日大根の間引き。
【スクラップブック(翌日朝まで、“ ”部分は原文そのまま。他は長谷川による要約。)】
  • 東京の隅田川河岸に日々雇用で生計を立てているホームレスの人たちのテントが並ぶ。バブル崩壊後求人が減りギリギリの生活だが、怪我をして働けなくなるか65歳に達しないと生活保護を貰えないという[NHK4/16朝5時台のニュース]