じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] ピグミーダンサー。行きつけの花屋で買った100円の処分品。種名も育て方も分からなかったが、さすがgooの検索力はすごい。こちらに解説があった。「グレビレア」が正式な種名で、そのうちの赤花の園芸品種を「ピグミーダンサー」と呼ぶらしい。


2月17日(水)

【思ったこと】
990217(水)[心理]価値の起源と創出について思うこと(3)お金の魅力の起源と弊害

 2月15日の日記の続き。きょうはお金について。

 お金は諸々の般性習得性好子(般性習得性強化子)の中でも特に強い強化力をもつ。産業労働に対しては給料が支払われるし、種々の民事裁判も最終的にはお金に換算されて解決される。お金が強い強化力をもつ最大の理由は、裏付け好子(習得性好子を好子として機能させているもともとの好子。杉山ほか1998による)との関係が一対多対応の関係をもつことにある。
 たとえばラーメンが好きな人は、ラーメンのニオイにも美味しさを感じて、そのニオイのする店のほうに向かう。この場合、ラーメンのニオイはラーメンの味を裏付け好子とする習得性好子になっていると考えられる。

 ところが何らかの事情で一日三食それも毎日のようにラーメンを食べていると見るのもイヤになってくる。これが飽和化だ。こうなるとラーメンの味ばかりでなくニオイのほうも強化力を失ってくる。これは味とニオイが一対一に対応しているためでもある。

 これに対して、毎回500円玉を出してラーメンを食べている人のことを考えてみる。「500円玉→ラーメン」という交換を何度も繰り返すと、500円玉はラーメンの味を裏付け好子とする習得性好子になってくるだろう。しかし、この場合、ラーメンを食べ過ぎても500円玉への魅力は変わらない。なぜなら、500円は他のものとも交換できるからである。

 このように、お金はいくら得ても飽和化が起こりにくい。このことがお金に対する強い執着を生み出すことになる。
 お金を求めることはしばしば賤しいことだとされる。しかしそれはお金自体が悪だからではない。お金が随伴することによって行動そのものが変わってしまい、もともとその行動に内在的に随伴していた好子が失われてしまうことが問題なのだ。

 たとえば半ば趣味のつもりで野菜を作っている人が、無人販売所にその野菜を出したところ高値で売れたとする。そのことに気をよくして本格的に野菜を作りだし、ついにはそれが本業になったとしよう。この場合、当初は、野菜が育つこと自体や、収穫された野菜を自分で味わうといった内在的な好子で強化されていた栽培行動が、お金という付加的な好子の随伴性によって強化されるようになる。
 となると、もともとは農薬を使わず手間ひまかけて美味しい野菜だけを作ろうとしていた行動は、
  • どのような野菜を作れば高く売れるか
  • いかにコストを減らして大量に作るか
などの視点から大幅に変容し、もとの行動内在的随伴性が失われていくことになる。ボランティア活動をしている人にお金を差し出すと激怒される場合も同様だ。これは、行動に内在する好子や、被援助者の笑顔などの社会的な好子が伴うことによる随伴性が破壊されることへの怒りであろう。

 お金はほんらい何らかの裏付け好子との交換を前提として強化力をもつものであるが、現代のように裏付け好子の数があまりにも多いと、何と交換するかが不明確なままにマネーゲームに走る場合が出てくる。マネーゲームとか財テクというのは、TVゲームと似たところがあって、それ自体「投資する」行動とその結果としての儲けというによって独立的に強化される。これが講じるとお金の亡者になってしまう。

 以上、行動分析学の教科書的な記述を繰り返してみたが、お金が本当に般性習得性好子になっているかどうかは、もう少し考えてみる必要がある。特に今のような、給料が銀行口座振り込みとなり何でもクレジットカードで決済できるような社会になると、タンジブルなお金というものが数字の増減だけに置き換わってしまうようになる。こういう状況のもとでは、もう少しルール支配的なもので、かつ別の強化子によって行動が維持・強化されている可能性がある。これについては別の機会に述べることにしたい。

 ともあれ、お金の価値はそれ自体にあるのではない。自分の日常生活の行動がどういう形でお金によって強化されているのかを見極めることが自己理解の大切なステップとなるであろう。
【ちょっと思ったこと】

 東京都知事選に誰が出馬するとかしないとか、お江戸騒動だとか、いろいろ言われているが、もともと知事というのは個人を選ぶものなのだから、政党に気兼ねせず、意欲のある人はどんどん立候補したらよいと思う。

 知事選の場合、出るとか出ないとか騒がれること自体を宣伝に利用する人もいるようだ。私が高校生の頃だったと思うが、某都知事候補が出馬する際に、最初から出るつもりのくせに、「出ない」と言ったり、それに対して出馬要請をするとかいろいろ騒ぎ立てて、天声人語に「昭和元禄田舎芝居」と評されたことがあったように記憶している。

 都知事選に限らず、首長選挙では、政策論争以前の段階で、知名度のアップやイメージづくりのための種々の世論操作が画策される場合がある。有権者は、候補者や政党幹部の表向きの発言や行動に振り回されないように注意したいものだ。
【新しく知ったこと】
【生活記録】
【スクラップブック(翌日朝まで、“ ”部分は原文そのまま。他は長谷川による要約。【 】部分は簡単なコメント。)】