じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
万両。鉢植え二年目もそれなりに実をつけた。赤い実が落ちる頃には、もう次の年の実になる花が咲いている。 |
【思ったこと】
990112(火)[心理]痴ほう介護と心理学(2) 1/10日記の続き。きょうは、何を対象にするのかということ。1/7の記事を読んだ限りでは、生活環境の影響、具体的には、人生経験を話し合う、音楽療法、動物飼育などの活動が痴ほう老人に与える影響が検討対象であるというが、問題は何に対する影響を調べるのかということ。 たとえば脳の器質的な変化を追うだけでは、せっかくの改善を見逃してしまう恐れがあるだろう。人間の脳機能は、特定の部位が形の上でダメージを受けても、かなりの補償力を備えているからである。 自立的な行動が形成されるのは良いことだとされる。ただし、それは方向を誤ると、号令に対して型どおりに反応するだけのロボット型の人間を作ってしまうことになりかねない。もちろん、周囲の迷惑や手間、社会的なコストを考えると、自立的であるに越したことは無いのだが、より可変的で柔軟な行動をいかに形成していくかということも考えていかなければならない。 念のため言っておくが、「状況に正確に応答する行動」を形成するということは、必ずしも人間のロボット化を意味するものではない。事物を正確に描写できる基礎的な力がなければ優秀な画家にはなれない。また、車を運転する場合でも、道路の状況に的確に応答することが求められる。 記憶についてもいろいろな見方があるだろう。確かに、長年連れ添った配偶者の顔を忘れてしまって「おや、どこのどなたか存じませんがご親切どうも」などと言われたのではたまったものではない。一日に何度も食事をしても「まだ食べてない」というのも困る。妄想はさらに問題となる。しかし、記憶を失うことで、ある意味では過去の辛い思い出を忘れさせ死への不安を取り除く場合もありうる。妄想や誤認は困るけれど、すべての記憶を正確に戻す方向で改善をはかることがその人の幸せをもたらすかどうか、検討してみる必要があるだろう。 いろいろ書いてみたが、人間の幸せは、「行動して結果を得る」という行動随伴性がより多様な形で保障されることによってもたらされると私は考えている。痴ほう老人の場合、家庭内での自分の行動が、「火のつけっぱなし」、「水の出しっぱなし」、あるいは徘徊による事故というようにとんでもない結果を招く恐れが出てくる。そこで家族は、その老人の行動を制約してしまう。自由に食べたり寝たりできても「行動して結果を得る」権利は著しく制約される。そのことが、部屋の隅でうずくまるような不活発さをもたらすとも考えられる。 いぜん、東京八王子の至誠老人ホームでの取り組みをTVで拝見したことがあった。そこでは入所者自身による食事の準備とか、入所者が得意とする着物の着付け指導などを求めるていたが、在宅時には部屋の隅でじっとしていたようなおばあちゃんが、見違えるように明るく振る舞うようになっていた。なるほど、「行動しそれに応じた結果を得る」ということはこういうふうに実現していくのか、と感激した。 次回は、検証の方法について考えてみたい。 |
【ちょっと思ったこと】
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【新しく知ったこと】
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【生活記録】
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【スクラップブック(翌日朝まで、“ ”部分は原文そのまま。他は長谷川による要約。【 】部分は簡単なコメント。)】
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