じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] 農学部の東西通りの銀杏並木。いまが最高。

昨日から当日朝の日記

11月29日(日)

【思ったこと】
981129(日)[心理]「シンクロニシティ」と「コンティンジェンシー」と「縁」(その2)最近体験した強烈なシンクロニシティをめぐって
 昨日の日記の最後のところで「迷信行動」についてふれた。スキナーは『科学と人間行動』(Skinner, 1953)という本の第6章の中で、この点に関して次のように述べている。
  • ある種の病気、怪我、アレルギー反応などでは、その治癒・快復時に行った処置策は何でも、完全回復によって強化されやすい。実際にその処置策が有効である必要はない。非科学的な医療における手の込んだ儀式行為は、病気一般のこうした特性から説明できる。
  • 迷信行動が偶発的に形成されてしまうことを防ぐ手だてはなさそうだ。もし反応確率を変えるために強化が3回反復される必要が常にあったとすれば、迷信行動は起こりにくくなっていたであろう。単一の随伴性で行動が実質的に変化するように進化したということが、結果的に偶然の一致に影響されやすい個体を作り上げてしまった。迷信行動が起こりやすいのはただそれだけの理由による。
  • 人間社会における迷信的な儀式は、ふつう言語的に表現されたしきたりを含んでおり、文化の一部として伝承されていく。この限りにおいては、儀式は、単なる偶発的なオペラント強化の結果とは異なっている。しかし、その起源を辿れば同じプロセスに行き着くはずであり、偶発的な随伴性によって維持強化されているものと思われる。
  •  行動に偶発的な変化が伴ったとしても、普通はそれは1度限りのことであり、仮にいったん強化されたとしてもすぐに消去され習慣にはなりにくい。いわば、実践が「有効な行動」を磨き上げ、「迷信行動」を消去すると言ってもよいだろう。ただ、1回限りであっても、その体験がごく稀にしか起こらないような衝撃的なものである場合には(←あんまり行動論的な表現ではないが)、そう簡単には消去されないこともありうる。宗教的な体験というのはそういう部類に属するものと思われる。

     じつはこの話題を取り上げようと思ったのは、25日に私自身が強烈なシンクロニシティを体験したことがきっかけであった。当日の夜、私はいつものように夫婦で夕食後の散歩に出かけた。その夜の話題は、妻の知り合いの奥さんのお母様の話。10/30の日記でちょっとふれたように、このお母様は、末期の肝臓癌のため10月下旬にホスピス病棟に転院していたのだが、その日の午後に急に容体が悪化して昏睡状態になったのだという。普通の病院と違って延命治療はいっさい行わないということなので、もしかしたら今晩あたりにお迎えが来るかもしれないという話をしていた。
     その日は空が澄み切っており、散歩から戻る頃には、夏の大三角形が西の空に沈みかけているところであった。夜空を見上げた人なら誰でも気づくように、この時間帯、北西の空には白鳥座が左下にクビをつっこむような形に見える。白鳥座は別名「北十字」とも言われるが、ちょうどこの時は、デネブを頂点に十字架が斜めにささっているようにも見える。このお母様のことが話題になっていたこともあって、この夜は、この十字形が際だって輝いているようにも見えた。
     アパートに戻る少し前、ちょうどこの十字の上のあたりで流れ星を目撃した。アパートに戻ったのが21時40分頃だったから、たぶん21時30分頃のことであったと思う。そして翌日、そのお母様が21時30分に亡くなられたということを聞いた。やっぱりシンクロニシティってあるんだなあ、と思わざるを得ない一瞬だった。

     私のような人間は、こういうことを1度体験したからといっそれを別段宗教的に意味づけする必要は感じないし、運命論に陥るつもりも無い。ただ、だからと言ってこういうことは、偶然だ、バカバカしいといってさっさと忘れてしまうべきことでも必ずしも無いように思う。因果関係が全く無かったとしても、偶然な出会いや、偶然に重なった出来事にはそれなりの価値があるものだ(結婚の相手選びだって、しょせんは必然性の無いシンクロニシティかもしれないし)。昨日も指摘したように、もともと随伴性という概念は、因果的な関係を前提にはしていない。事実を事実として受け入れるのと同様、シンクロニシティもシンクロニシティとして受け入れ、そのうえで価値を与えてやってもよいのではないかという気もする。

     ちなみに、昨日の日記ででは「行動随伴性(contingency:コンティンジェンシー)は
    ある条件の下で、ある行動をすると、ある環境の変化が起こるという、行動と環境の関係
    として定義されていたけれど、
    ある条件の下で、ある行動が外界の事象と縁をもつこと
    なんて定義するのも一興かもしれない。いや、これは私のアイデアではなくて、某学会の懇親会の席で、半分冗談ながらささやかれたことであった。シンクロニシティに価値を与えるということは、ま、言ってみれば「縁を大切にする」ということになるのだ。
    【ちょっと思ったこと】
    • スペースシャトルから向井さんらが撮影したハイビジョン映像をビデオ録画にて見る。暗黒の中に青く輝く地球を見ていると、天国というのは宇宙ではなく地球のリンゴの皮一枚程度の薄っぺらい大気の中にあるということがよく分かった。
    【新しく知ったこと】
    <11/30追記>じゃんけんに関して、掲示板にて赤尾さんから貴重な情報をいただいたのでご紹介させていただく。
    民族遊戯大事典』(大修館書店)の「じゃんけん」の項(寒川恒夫)によると,「すくみ原理」に基づくじゃんけん遊びは,東アジア固有のものだそうです。
    「四すくみ」はありませんが,中国広東省やマレーシアでは「五すくみ」じゃんけんがあるそうです。 広東省では,親指=神,人差し指=鶏,中指=鉄砲,薬指=キツネ,小指=シロアリ。すくみ関係は,神>鶏,神<鉄砲,シロアリ<神,鉄砲<鶏,キツネ<鶏,鶏<シロアリ,鉄砲<キツネ。神=キツネ,鉄砲=シロアリ,キツネ=シロアリは引き分けだそうです。
    マレーシアのは,鳥,石,鉄砲,板,水で,すくみ関係は複雑ですが,結局は「三すくみ」に還元されることも多いようです。
    文献史料で確認できる最も古いじゃんけんは後漢時代の将軍たちの「五雑俎」で,その名の通り「五すくみ」だったようです。
    だとすると,陰陽五行論にじゃんけんの起源があるのは本当のことかも。
    【生活記録】
    • 11/29の18時50分に家族全員でイリジウム68号を眺める。薄雲を突き破るマイナス6.8等星級の明るさ。また閃光を放ったあとの可視時間も長かった。いっぽう、先日打ち上げられた国際宇宙ステーションのザーリャが11/30の朝6時頃見られるというのでアパートの階段に出てみたがそれらしき航跡は認められず。モヤがかかっていて北斗七星の3等星が見えない状況だったが、少なくとも1〜2等星級の明るさには達していない模様。
    夕食後昼食後の夫婦の散歩】------71日目(妻は68日)。ピカチュウ万歩計で14328歩。----
    [図]
     きょうは、昼食後に大学北側に連なる半田山()に行って来た。家族全員で行きたいところだったが、息子は土曜日も授業があったためにクタクタ。娘はなんと前日に、その隣りの山に野外観察会に行って来たばかりでこちらもパス。けっきょく夫婦だけで行くことになった。
    [写真] ルートは左の写真(アパートの前から撮影。手前は農学部農場)の青線の通り。この山は、広葉樹林が主体だが、予想外に常緑樹が多く、麓から期待されたほどの紅葉はなかった。それでも、ほとんど手を加えていない自然が満喫でき、有意義な午後を過ごせた。
    [写真][写真]  写真左は林道から眺めた紅葉(というか「黄葉」)。右は林道の風景(人物は私自身なのだが、木漏れ日の当たり方がまだらのため、心霊写真みたいに写っている)。

    半田山は、岡山大学の敷地であり「半田山自然教育林」というのが正式名称。面積は67万5912平米であり、岡大津島キャンパスの面積63万6983平米をしのぐ。今回登ったのはダイミ山という標高160mの山。そこから西に、半田山、城山..と続き、城跡など遺跡が残っている。
    【スクラップブック(翌日朝まで、“ ”部分は原文そのまま。他は長谷川による要約。【 】部分は簡単なコメント。)】