じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



03月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る

クリックで全体表示。




 帰省先の北九州でウォーキング中に見かけた廃屋。ウォーキングコース沿いの廃屋は岡山でも見かけるが、たいがいは早期に学生向けマンションなどに建て替えられている。北九州のほうは、場所にもよるが、訪れるたびに更地が増えているほか、何十年にもわたって廃屋のまま放置されているところが少なくない。


2024年3月7日(木)




【連載】100分de名著 #136『偶然性・アイロニー・連帯』(10)第1回 近代哲学を葬り去った男(5)「三歳児神話とワンオペ」「偶然と必然をめぐる自己言及パラドックス」
 前日に続いて、2024年2月5日からNHK-Eテレで放送が開始された、

100分de名著 #136『偶然性・アイロニー・連帯』

についての感想・考察。

 第1回の終わりのあたりで、安部みちこアナが、
ちょっと前まで、母親が会社を早く退社して帰って子育てしているのを「三歳児神話もあるからお母さんだね、これからは」と送り出されていたが、それがちょっと経ってから「ワンオペだね」と言われるようになった。おおそうだ、それがとても過酷だと思っていいような空気に変わった。
というエピソードを語っておられた。これは、「言葉は社会や人間を変える力を持つ」という議論の中で語られたものであり、朱喜哲さんは

ワンオペ育児もずっと以前から事態であったが、そこにちゃんと名前がついて、場合によっては当事者自身も名づけられることで初めて問題に気づけたとか、これって怒っていいんだとか、問題だと思っていいんだとなれるようになるのも言葉の力

というようにコメントされた。

 放送では続いて、というかやっとのことで『偶然性・アイロニー・連帯』の構成の紹介に入った。この著書は、
  • 第一部 偶然性
  • 第二部 アイロニズムと理論
  • 第三部 残酷さと連帯
という三部構成になっており、「異なった人たちと、どうやって共存し、会話を続けていくことができるか?」をテーマにしている。放送内容のここまでのところで語られた「言葉が変わっていくと社会や人間が変わる」という話は第一部の『偶然性』に関する話題であり、常識や当たり前だと思っていることは偶然の産物であると説かれている。朱喜哲さんは

『私たちは偶然で今の社会のあり方も偶然』という認識を持つべきだ。一番正しいものということはあり得ないし、これからも変わっていくことがあり得る。例えば、理性とか理路整然としたことが人間の本質であるともし考えた場合には、じゃあ理性的でない人たちとか、赤ちゃんとかは人間じゃないという扱いになりかねない。そんなふうに、何か絶対に正しい原理を持ち出したり、「それがわかっている私」と線を引いていくことが人の分断を作り出す。本質を探そうとする発想から縁を切らなくてはいけない、というのがローティの1つのポイントであるし、相互理解を促して、人類単位での会話をつなげることができるんだよというメッセージを出している。

というようにまとめられた。




ここからは私の感想・考察になるが、まず安部みちこアナの『三歳児神話』や『ワンオペ』のエピソードは、確かに、ある現象に名前がつけられることで何かに気づいたり社会が変わるきっかけになるという一例にはなっているとは思う。もっとも、社会が変わるにはまず、それなりの社会構造の変化が必要であり、それが熟していない状況でいくら新しいスローガンを叫んでもその言葉が広まることはない。毎年発表される流行語大賞なども、それぞれ何らかの社会的背景を反映して広まったものではないかと思われる。

 『私たちは偶然で今の社会のあり方も偶然』については、私自身も基本的には賛成であり、人間は単に地球環境のもとでどうにかこうにか進化して生き延びてきた動物に過ぎず、それ以上でもそれ以下でもないとは思っている。少なくとも、個人は何かの使命を携えて生まれてきたわけではない。
 もっとも、地球に生まれてきた以上、この地球環境を守る義務はあるし、最低限でも地球環境をこれ以上悪化させないための行動を実践する義務はあると思う。なので、異常気象や温暖化もすべて偶然であり、再生可能エネルギーへの転換を目ざすべきだという発想とも縁を断ちきり、化石燃料の無駄遣いをしている人たちとの相互理解を促すべきだ、ということには決してならないように思う。

 以前にもこのWeb日記に書いたことがあるが、人と人との争いはしばしば資源の奪い合いによって生じる。人口が増え、一人一人の消費が増えれば増えるほど、食糧資源もエネルギー源も奪い合いとなっていく。この争いが、言葉づかいを変えて解決できるとは考えにくい。

 あと、これは自己言及のパラドックスみたいになってしまうが、

●『私たちは偶然で今の社会のあり方も偶然』という認識を持つべきだ。

というのも1つの主張であり、「○○という認識を持つべきだ」というのは「○○という認識を持つことが一番正しい」と主張していることに他ならず、これは「一番正しいものということはあり得ない」という主張に自己矛盾することになる。もっとも、2月26日にも引用したように、
...それゆえローティは、実在との関わりを言葉で考察することをすべて放棄し、代わりに、言葉と別の言葉との関係のみで考察するべきであると主張している。このような立場からローティは、この本で記されている「議論」も不正確なものにならざるを得ないと述べている。なぜなら、その議論の多くは、特定の領域の中で用意されていた言葉を使って行われているものであり、これまでに無かった新しい概念を使うことが妨げられているからである。
と述べており、著書そのものの限界にも言及しているようである。とはいえ「一番正しいということはあり得ない」と書かれた本が自己矛盾に陥ることは間違いない。おそらく、
  • 主張A:『私たちは偶然で今の社会のあり方も偶然』という認識を持つべきだ。
  • 主張B:『私たちは必然で今の社会のあり方も必然』という認識を持つべきだ。
という2つの主張の対立は、どちらも受け入れることでは解消しないが、「認識をもつべきだ」を放棄すれば何とかなりますよ、ということなのだろう。

 次回に続く。