じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 半田山植物園の枝垂梅は一部の遅咲き種を除いて落花が進んでいる。そのいっぽう、チューリップの芽は日々成長しており、寒の戻りの中でも季節の変化が感じられる。






2024年2月27日(火)




【連載】100分de名著 #136『偶然性・アイロニー・連帯』(5)ローティの『contingency』(2)自己の偶発性、リベラルな共同体の偶発性

 昨日に続いて、2024年2月5日からNHK-Eテレで放送が開始された、

100分de名著 #136『偶然性・アイロニー・連帯』

についての感想・考察。

 昨日に続いて、ウィキペディア(英文)の原書の『contingency』の項目を自分なりに訳してみることにする。
 その前に、昨日訳出した部分を、Googleの機械翻訳と対比させて再掲しておく【一部略・改変】。

1)The contingency of language【言語の偶然性】
【原文】Here, Rorty argues that all language is contingent. This is because "only descriptions of the world can be true or false", and descriptions are made by humans who must also make truth or falsity: truth or falsity is thus not determined by any intrinsic property of the world being described. Instead, they purely belong to the human realm of description and language. For example, a factual case of green grass is neither true nor false, in and by itself, but that grass is green may be true. One could say that that grass is green and another person could agree with the statement (which for Rorty makes the statement true), but the use of the words to describe grass is distinct and independent of the grass itself.
【Google】ここでローティは、すべての言語は偶発的であると主張します。これは、「世界の記述だけが真か偽である可能性がある」ためであり、記述は人間によって行われ、その人間も真か偽を作成しなければなりません。したがって、真か偽かは、記述される世界のいかなる固有の 性質によっても決定されません。代わりに、それらは純粋に人間の記述と言語の領域に属します。たとえば、緑の草という事実の事例は、それ自体では真でも偽でもありませんが、草が緑であるということは真実である可能性があります。ある人はその草は緑であると言うことができ、別の人はその意見に同意するかもしれません(ローティにとってその意見は真実です)が、草を説明するための言葉の使用は別個であり、草自体とは独立しています
【拙訳】 この章で、ローティは、すべての言語は偶発的に形作られたと論じている。なぜなら、我々が世界について「真か、偽か」と判断できるのは、それが言語として記述された場合にのみ可能となるからだ。世界の記述は人間によってなされ、その上で真偽の判断が行われる。つまり、真か偽かというのは、対象自体に内在する本質によって決まるのではなく、あくまで人間が行う言語的な記述の範囲で決められるのである。例えば、草が緑かどうかという自体は真でも偽でもない。しかし、ある人が「この草は緑だ」と言明し別の人がそれに同意すれば「言明は真である」ということになる。但し、その言明は、草自体とは別個であり、独立している。


【原文】Apart from human expression in language, notions of truth or falsity are simply irrelevant, or maybe inexistent or nonsensical. Rorty consequently argues that all discussion of language in relation to reality should be abandoned and that one should instead discuss vocabularies in relation to other vocabularies. In coherence with this view, he thus states that he will not exactly be making "arguments" in this book, because arguments, as expression mostly within the domain of a given vocabulary, preclude novelty.
【Google】人間の言語による表現は別として、真実か虚偽かという概念は単に無関係であるか、存在しないか無意味である可能性があります。したがってローティは、現実との関係における言語の議論はすべて放棄されるべきであり、代わりに語彙を他の語彙との関係で議論すべきであると主張する。この見解と一致して、彼は、この本では正確には「議論」をするつもりはないと述べています。なぜなら、議論は主に与えられた語彙の範囲内での表現として、新規性を妨げるからです。
【拙訳】 人間の言語的表現から切り離して考えると、真とか偽とかいった概念は、単なる的外れであり、あるいは存在しないか無意味である可能性がある。それゆえローティは、実在との関わりを言葉で考察することをすべて放棄し、代わりに、言葉と別の言葉との関係のみで考察するべきであると主張している。このような立場からローティは、この本で記されている「議論」も不正確なものにならざるを得ないと述べている。なぜなら、その議論の多くは、特定の領域の中で用意されていた言葉を使って行われているものであり、これまでに無かった新しい概念を使うことが妨げられているからである。

 私の訳にも足りない部分があるかもしれないが、機械翻訳よりは多少なりとも原文の内容を伝えているのではないかと思っている。ということで、残りの2節についても引き続き私の訳を記すことにしたい。

【原文】
2) The contingency of selfhood
Rorty proposes that each of us has a set of beliefs whose contingency we more or less ignore, which he dubs our "final vocabulary". One of the strong poet's greatest fears, according to Rorty, is that he will discover that he has been operating within someone else's final vocabulary all along; that he has not "self-created". It is his goal, therefore, to recontextualize the past that led to his historically contingent self, so that the past that defines him will be created by him, rather than creating him.
【Google】2) 自己性の偶然性
ローティは、私たち一人ひとりが、多かれ少なかれ無視している偶発性を無視している一連の信念を持っていると提案し、それを彼は「最終語彙」と呼んでいます。ローティによれば、強い詩人の最大の恐怖の一つは、自分がずっと他人の最終的な語彙の中で活動してきたことに気づくことだという。彼は「自分で作った」ものではないということ。したがって、彼の目標は、歴史的に偶然的な自己につながった過去を再文脈化し、彼を定義する過去が彼を創造するのではなく、彼によって創造されるようにすることです。

【拙訳】 2)自己の偶発性
私たちには、多かれ少なかれ偶然性を無視するようなある種の信念体系があると、ローティは主張している。これは『究極語彙』と呼ぶべきものだ。有能な詩人が最も恐れていることの1つは、自分の創作活動が他者の『究極語彙』の世界から抜け出せないということ、つまりその詩人の独創性が見られないと気づくことだ、とローティは言う。したがって、その詩人にとっては、偶然性のかかわりで形成されてきた自己の歴史を再文脈化することが目標となる。自分自身を定義する過去がその人を創っていくのではなく、その人自身によって創られるようになるのは、再文脈化によって達成される。

 以上は私の思い込みで見当外れの訳になっている可能性もある。原書や関連文献を読まないと正確に訳すのは難しい。
 続いて、最後の第3章。
【原文】
3) The contingency of a liberal community
Rorty begins this chapter by addressing critics who accuse him of irrationality and moral relativism. He asserts that accusations of irrationality are merely affirmations of vernacular "otherness". We use the term "irrational" when we come across a vocabulary that cannot be synthesized with our own, as when a father calls his son irrational for being scared of the dark, or when a son calls his father irrational for not checking under the bed for monsters. The vocabulary of "real monsters" is not shared between father and son, and so accusations of irrationality fly. As for moral relativism, for Rorty, this accusation can only be considered a criticism if one believes in a metaphysically salient and salutary moral, which Rorty firmly does not.
Rorty then discusses his liberal utopia. He gives no argument for liberalism and believes that there have been and will be many ironists who are not liberal, but he does propose that we as members of a democratic society are becoming more and more liberal. In his utopia, people would never discuss restrictive metaphysical generalities such as good, "moral", or "human nature", but would be allowed to communicate freely with each other on entirely subjective terms.
Rorty sees most cruelty as stemming from metaphysical questions like, "what is it to be human?", because questions such as these allow us to rationalize that some people are to be considered less than human, thus justifying cruelty to those people. In other words, we can only call someone "less than human" if we have a metaphysical "yardstick" with which to measure their prototypical human-ness. If we deprive ourselves of this yardstick (by depriving ourselves of metaphysics altogether), we have no means with which to dehumanize anyone.

【Google】3) リベラルなコミュニティの偶発性
ローティはこの章を、不合理と道徳的相対主義で彼を非難する批評家たちに言及することから始めます。彼は、非合理性の告発は単にその言語の「他者性」を肯定するものであると主張する。私たちは、父親が暗闇を怖がる息子を非合理的だと言うときや、息子が父親をベッドの下を確認しないことで非合理的だと言うときのように、自分の語彙では合成できない語彙に遭遇したときに「非合理的」という言葉を使います。モンスター用。「本物の怪物」についての語彙が父と息子の間で共有されていないため、不合理だという非難が飛び交う。道徳的相対主義に関して言えば、ローティにとって、この非難は、形而上学的に顕著で有益な道徳を信じている場合にのみ批判とみなされるが、ローティはそれを断固として信じていない。
次に、ローティは彼のリベラルなユートピアについて語ります。彼はリベラリズムについて何の議論もせず、リベラルではないアイロニストはこれまでにもこれからもたくさんいると信じているが、民主主義社会の一員としての私たちはますますリベラルになりつつあると提案している。彼のユートピアでは、人々は善、「道徳」、「人間性」などの限定的な形而上学的な一般性について決して議論せず、完全に主観的な言葉で互いに自由にコミュニケーションすることが許可されています。
ローティは、ほとんどの残虐行為は「人間とは何ですか?」のような形而上学的な質問から生じていると見ています。なぜなら、このような質問によって、一部の人々が人間以下であると考えられることを合理化し、そのような人々に対する残虐行為が正当化されるからです。言い換えれば、私たちが誰かを「人間未満」と呼ぶことができるのは、その人の典型的な人間性を測る形而上学的な「物差し」を持っている場合だけです。もし私たちがこの基準を自分から奪えば(形而上学を完全に奪うことによって)、私たちは誰かを非人間化する手段を持たなくなります。

【拙訳】3) リベラルな共同体の偶発性
 この章の冒頭で、ローティの主張を非合理的、かつ道徳的相対主義であると非難している人たちに反論している。非合理的だという非難は、単に言語的な「他者性」を肯定しているに過ぎないとローティは主張する。私たちが「非合理的」という言葉を使うのは、父親と息子がお互いを非合理的だと言うような場合である。例えば父親が「暗闇が怖い」と言うの息子を非合理的だと評したり、息子が「ベッドの下にモンスターがいないか調べない」と父親が言うのを非合理的だと評したりするように、私たち自身の語彙と合成できない語彙に出くわしたときである。本物の怪物」という語彙は父・息子間で共有されていないため、不合理だという非難が飛び交うのだ。道徳相対主義については、形而上学的に顕著で有益な道徳があるという信念に基づいてのみそういう非難が起こりうるものであるが、ローティは断固としてそのような信念を否定している。
続いてローティは、リベラルなユートピアについて論じる。ローティはリベラリズム自体については特に議論をしておらず、リベラルでないアイロニストはたくさんいたし今後もいるだろうと考えているが、民主主義社会の構成員としての私たちはますますリベラルになっていくであろうと提唱している。彼のユートピアでは、人々は善、「道徳」、「人間の本性」といった制限的な形而上学的一般論について議論することはなく、完全に主観的な条件で互いに自由にコミュニケーションを交わすことができるようになる。
ローティは、ほとんどの残酷さは「人間とは何か」というような形而上学的な問いから生じていると考えている、なぜなら、このような問いによって、私たちはある人々が人間以下であると合理化することができ、その結果、その人々に対する残酷な仕打ちが正当化されるからである。言い換えれば、私たちが誰かを「人間未満」と呼ぶことができるのは、その人の人間らしさを測る形而上学的な「物差し」がある場合だけなのだ。もし私たち自身がこの物差しを失ってしまえば(形而上学を完全に奪ってしまえば)、誰かを非人間的にする手段がなくなってしまう。




 ここからは私の感想・考察になるが、まず、以上までの訳で思ったこととして、『contingency』は「偶然性」ではなく「偶発性」もしくは「偶発的多様性」と訳したほうが妥当ではないかという気がした。
 『2) The contingency of selfhood』のあたりは、スキナーの自己概念や、その後の機能的文脈主義の考えにかなり近いように思われた。ローティが、

●Pepper, S.C. (1942). World hypotheses: A study in evidence. Berkeley, CA: University of California Press.

の考えをどのように受け止めていたのか、また相互に引用がなされているのか、気になるところだ。

 次回に続く。