じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 北九州・槻田川の輝く洗堰。岡山の街中に西川のような用水路が流れているが、高低差はわずかで、洗堰は殆どみかけない。


2023年5月4日(木)



【連載】ヒューマニエンス『アート』(6)「アートの価値と文脈」

 昨日に続いて、3月28日に初回放送された、NHK『ヒューマニエンス』、

“アート” 壮大な“嘘”が教えてくれるもの

についてのメモと感想。今回で最終回。

 放送の終わりのところでは『アートがもつ物語』という話題が取り上げられた。
 まず紹介されたのはバンクシーの『風船と少女』(2018)という作品。オークションでおよそ1億5000万円で落札されたが、オークション制度に批判的な本人が額縁に仕掛けた装置によって、落札の直後に裁断されてしまった。だが皮肉なことに、その裁断された絵は3年後におよそ25億円に跳ね上がったという。これはヒトがアートに純粋な表現以外のものを見てしまうためだと指摘された。
 奥村高明さん(日本体育大学)は、「 人々は目に見えるものだけを芸術作品と捉えているところがあるが、【氷山に喩えるなら】目に見えるところが海の上に浮かんでいる部分。芸術作品にとって海とは、歴史であったり文化であったり、【物語であっらり】、というようなさまざまな文脈が必要。」と指摘された。
 続いて、アートの価値が文脈によって大きく左右される例として、レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』が挙げられた。『モナ・リザ』は、制作当時は数あるダビンチ作品の1つとして認知されそれほど価値を持たなかった。ところが1911年に美術館から盗まれそのことが大々的に報道されたり、その後パロディ作品が次々と生まれさらに話題を呼んだ。それに加えて、モナ・リザのモデルは誰? とかダ・ヴィンチの自画像ではないか? といった様々な議論が交わされ多くの関心を集めた。こうして世界最高の名画となった。アートは目に見える純粋な表現だけにおさまるものではない、私たちヒトがさまざまな関係性の中で生きていることで繋がっていると説明された。奥村さんは、「芸術作品に含まれている文脈はものすごく多様で、私たち自身のあり方とイコールではないか。我々が何者かというところにかかわってくる。」と指摘された。
 放送ではさらに、私たちがさまざまな作品を味わう時にも文脈が深く関係している、ということを表す川畑さん監修の実験が紹介された。
  • 被験者は視線を追いかける装置を装着。
  • 真ん中に老木があり、遠くに山が描かれた風景画【カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ『孤独な木』1822年】を鑑賞してもらう。
  • まず何の情報も与えずに鑑賞してもらったところ、視線の移動記録から絵画全体を見渡していることが確認された。被験者は「穏やかでのどかな雰囲気を持った」という感想を述べた。
  • 次に「この絵画の真ん中に描かれている木は孤独の象徴であると言われている」という、この絵画にまつわる文脈を被験者に伝える。
  • 被験者が改めて鑑賞したところ、文脈を得たあとは視線が中央の木に集まっていることが確認された。被験者からは「【東日本大震災の時の】一本松に似たような、またそれに寄り添うような羊飼いがいてこれもまた孤独を引き立たせるようなひとつ」というような感想が述べられた。
 この『孤独な木』は、爽やかな風景であると感じる人が多い、遠くのほうが明るくてそちらのほうに希望を感じるという人が多いが【←織田さんは変わらないと言っていた】、タイトルを与えられると印象が変わってしまうということであった。なおリンク先には
  • 古い樫の木は、傷ついているが、絵の中心にまだしっかりと立っている。暗いシルエットの枝が、曇った朝の空に伸びている。雲の塊が、木の上にドームを形成しているようである。木の頂上部は死んでいる。幹の頂と2つの枝は、十字架のように見える。
    羊飼いは葉を持つ枝の下に避難している。羊の群れは、木の周りにある草原、池のそばで放牧されている。
    中景には、他の木や茂みに囲まれている村や町が見える。樹木が茂った丘陵地帯のむこうで、青い灰色の山々が背景となっている。
  • この作品は、銀行家であり美術収集家のヨアキム・ハインリッヒ・ヴィルヘルム・ワーゲナーにより依頼された。その依頼には、クロード・ロランの伝統に基づき、朝と夕の景色を描いた「一日の時間」のペアを成すもう一つの作品、《海の月の出》も含まれていた。
  • この絵は、いくつかの解釈を引き出している。ルートヴィヒ・ユスティは、古い樫の木を、風景に根ざしたドイツ人の象徴として見ている。ジェンス・クリスチャン・ジェンセンは、それを過去と現在のつながりとして見ている。シャーロット・マーガレット・ド・プリブラム・グラドーナは、孤独の象徴とみなしている。
という説明があり、これだけたくさんの文脈が与えられてしまうと、それに沿った見方にどうしても変わってしまう。これを機会に、当該の絵をノートパソコンの背景画面に設定し、繰り返し眺めることで印象が変わるかどうかを試してみることにした。

 川畑さんによれば、特に現代アートでは絵画のタイトルを『無題』とすることが圧倒的に多くなっている。また、タイトルのつけ方でも作品の評価が変わってくるという。情景やそのものを表すような機能的なタイトルよりもむしろ、情緒的で一体何を表しているのかな?みたいなタイトルのほうが印象を変化させたりよく感じさせる効果があるらしいことが分かっている。美しさを感じる時に他者から意見の影響を受けるのは、共感や同調のあらわれでもあると説明された。
 放送では、文脈によって価値【←ここではオークションの値段】が変わる例として、上掲のバンクシーの作品のほか、アンディ・ウォーホルの『32個のスープ缶』(1962年)が挙げられていた。
 猪子さんによれば、ウォーホールによって、「人類は、みんなが知っているようなものは価値がないと思っていたが、本当はみんなが知っているものはみんなが好きということに気づいた。ウォーホールの作品は、現代の美意識の変化を説明する上で無くてはならないものであり、そうすると世界中の美術館が所有したい作品となり、しかもウォーホールはすでに亡くなっていることからこれ以上の本物は出ない【ということで価格が高くなる】。価格と現在における感動は比例しているわけではない。」とコメントされた。このことに関連して川畑さんからはまた「歴史の中にどういうふうに作者や作品を位置づけるかが重要。位置づけられたものが結果的にもうそれ以外にはあり得ないから評価も値段も高くなる。」とコメントされた。

 放送の最後のところでは、この先アートの力でどんなことができるようになるのかという一例として、川畑さんから東京芸術大学の「アートを使って高齢者の孤独や孤立を解消するプロジェクト」というのが紹介された。具体的には、一緒に絵を鑑賞するとか絵を創り出すとかといった取り組みの中で、アートを町に創ったり家の中に飾ったり職場に置いたりするなかで、クリエイティビティを高めたり孤独を解消したりといったいろいろな波及効果を期待するというようなものであり、もともとアートは役に立たないものとされていたが、むしろこれからは役に立っていくと論じられた。
 猪子さんからは、
 サイエンスのおかげでヒトは見えている世界が増えてきた。アートは世界の見え方を変えてきた。見えている世界が増えてもヒトは行動が変わるし世界の見え方が変わってもヒトは行動が変わる。今後もチーム・ラボとして美を拡張できたらいいと思っている。
というコメントがあった。なお織田さんからも「すごく大事なことを思ったが何だったか言い忘れた」という発言があったが、残念ながら思い出されないままに終わった。




 ここからは私の感想・考察になるが、文脈とアートの関係については放送で解説された通りであろうとは思うが、時代を超えた普遍性というのも一部には含まれていると思う。現代人でも縄文土器は美しいと感じるであろうし、『モナ・リザ』には普遍的な美が描かれており決して文脈だけで価値が決まるものではない。もちろんだからといって、地球以外の天体に住む宇宙人が、地球人のアートを同じように評価するわけではない。「普遍的な美」と言ったところで、あくまで地球環境や人間の生活がある程度の同一性を保っているため、つまり、共通の文脈を備えているからに他ならないと思う。
 私個人は、絵画は何の文脈も与えられずに観ることを好む。上掲の『孤独な木』も、初めて見た瞬間にそういう場所に行ってみたいと思えば高い価値となるし、そうでなければ関心は高まらない。これまで鑑賞したアートで特に印象に残っているのは、 など。

 東京芸術大学の「アートを使って高齢者の孤独や孤立を解消するプロジェクト」については今回初めて知ったことでありコメントできる立場にはない。個人的には、アートよりも園芸やVRのほうに興味がある。それと、生活面での孤立は解消するべきとは思うが、孤独自体についてはもっと価値を見いだすべきところがあると思っている。孤独論と言えば、ツイッターで中島義道先生のbotを拝聴しており、ふむふむと頷いたりしてリツイートさせていただいたりしていたが、この1ヶ月ほど発信が途絶えている。どうなさったのだろうか。