じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



11月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る



クリックで全体表示。


 11月3日、某用事のため、ほぼ4年半ぶりに背広・ネクタイを着用して外出した。退職後はウォーキングシューズかサンダルを履いて外出していたがそれでは不釣り合いということで靴箱の中にあった古い革靴(といっても合成皮の安物)を履いて出かけたが、しばらく歩いているうちに靴底に違和感があり、さらに妻から靴が破れているのではないかと指摘された。
 その後歩けば歩くほど、側面の合成皮や靴底のスポンジがボロボロと剥がれ落ちていったが、帰宅までなんとか持ちこたえてくれた。
 外出時の靴の崩壊は2019年6月にも経験したことがあり、私にとっては70年の人生で2度目のハプニングということになる。
 穴が開いたり、少しずつ剥がれてくるぶんにはその日の歩行には支障が無いが、安物の靴や、使い古した登山靴では急激に崩壊する場合があり、出かける前にしっかりチェックする必要がある。←私の身体もそのうち同じようになるだろうが。


2022年11月04日(金)



【小さな話題】岡山の基礎をつくったリーダー達(3)津田永忠/座主川の由来

 昨日に続いて、10月30日にテレビせとうちで放送された、

プライド【岡山城リニューアルオープン特集 岡山の基礎をつくったリーダー達】

の備忘録。

 池田光政に続いて3番目に取り上げられたのは、土木の天才、津田永忠(1640-1707)であった。今回取り上げられた3人のうち宇喜多直家と池田光政のことはある程度知っていたが、津田永忠という名前は今回初めてであった。

 津田永忠は、池田光政と綱政に仕えた“スーパー土木部長 兼 プロデューサー”であり、その功績としては、岡山後楽園、閑谷学校、吉井水門、吉備津彦神社など多数あるが、今回の放送では百間川と新田開発が紹介された。百間川というのは氾濫した旭川の水量を減らす放水路であり、津田永忠はその水路開削と築堤を指導した。洪水時の被害を抑えるための堤「荒手」は今でも洪水防止に役立っている。この荒手は、「一の荒手」、「二の荒手」、「三の荒手」というように3段階で洪水時の放流を調整している。そのいっぽう、下流域では新田開発を行った。従来は、新田開発をすると水はけが悪くなり水害を招くため、洪水対策と新田開発は両立できないと考えられていたが、津田永忠は、百間川の河口に遊水池や樋門を造り両方を実現した。【こちらに詳細資料あり。】
 2018年7月16日の西日本豪雨では真備町を流れる小田川が決壊するなどの大規模な被害が発生したが、旭川流域では増水した流れの一部が百間川のほうに放水されたため、岡山市中心部を流れる旭川の水位上昇は、百間川が無かった場合に比べて1.3m低く抑えられた。これによって中心部の約3300戸が氾濫被害を免れたと考えられているという。

 以上をふまえて、放送では、津田永忠から学ぶべきこととして「二者択一に縛られない」を挙げていた。新田開発と洪水対策は両立しないと言われてきたのに対して、発想の転換で相反する2つの難問が一気に解決することがあるということ。そして、長い目で見たプロジェクトの重要性が指摘されていた。

 今回紹介された百間川の荒手のうち「一の荒手」は、2021年9月の旭川・中州探検の際に中州川から眺めたことがあった。なお、中州の北東端にあった謎の取水路も、旭川右岸(西川)地域の灌漑用水路の取水口として、津田永忠の時代に造られた可能性がある【あくまで私の想像】。

 ここからは放送内容と無関係な話題になるが、岡大構内を流れる座主川用水は、こちらのサイトによれば、もともとは三野川あるいは小野川と呼ばれており、名称の由来は金山寺が天台宗であったため、天台座主に因んだ命名であるという。いっぽうこちらのサイトによれば、福輪寺(真言宗。後に日蓮宗[妙善寺]となった)の座主の良遊が開いた用水であるということで「座主川」という説が紹介されている。
 こちらによれば、座主川から出てくる遺物に平安時代のものがあり、縄文時代に旭川からの支流があった岡山大学構内のすぐ近くに平安時代にも旭川から流れ込む一筋の流れがあった可能性があると想像されていた。いっぽうこちらの資料の妙善寺の由来の中に、
津島村には、弘法大師が開いたと伝えられる福輪寺(真言宗)という寺があった。 当時の座主の良遊は開拓事業などを行い地域農民のために尽力した人であった。例えば、旭川の流れをせきとめ、三野・津島に水路を築くなどの功績を残し、今でも《座主川》という名前の川が残っている。 その良遊が、大覚大僧正の弟子となり、のちに寺名を「妙善寺」と改めたのが、当寺のはじまりである。 また、一帯は伊福郷の冨山城主、松田一族が治めていたが、城主も帰依し、戦国時代を通じて日蓮宗を庇護したので、その教えは備前一円のみならず、戦国末期には美作地方にまで広がった。これが今日いわれるところの「備前法華」である。
という記述があり、座主川用水に関しては、今回の放送で取り上げられていた津田永忠が関与したことを示す記述は確認できなかった。