じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 岡大構内のスズカケノキ(おそらくモミジバスズカケノキ、プラタナス)が「鈴懸」をつけている。ウィキペディアによれば、「鈴掛の木」の名前は、この木の果実の形状が、山伏が胸にまとう装束「結袈裟」にぶらさがっている装飾的な球形の房(通称「鈴懸」、正式名称「鈴梵天」)に似ていることに由来する。 なおウィキペディアで「球形の房」と表現しているように、ぶら下がっているのは1個の実ではなく、痩果が多数集まった房である。
 2020年4月25日の日記の写真にあるように、これらの「房」はまもなくバラバラになって散らばっていくはず。

2022年4月27日(水)



【連載】abc予想証明をめぐる数奇な物語(8)宇宙際タイヒミューラー理論の登場

 昨日に続いて、

NHKスペシャル「数学者は宇宙をつなげるか?abc予想証明をめぐる数奇な物語【ブログ後編はこちら

についての感想と考察。59分バージョンをベースにして、4月15日の23時から放送された89分「完全版」を参照しながら感想を述べることにしたい。

 さて、昨日のところで、当時の同僚の加藤文元博士が、
望月博士は楕円曲線のホッジ・アラケロフ理論を構築した頃に、それを使えばabc予想を解くことができるだろうという感覚を持たれていたが、徹底的に考えた結果、無理であろうという結論に達した。そこから新しい数学を作らなければいけないと感じた。
と語っておられたことを記したが、その後望月博士は全く新しいアイデアでこの問題に取り組んだ。それは通常の数学の世界から飛び出し、これまでにない数学を作り出そうとするものであったという。
 同僚の玉川安騎男博士(京都大学数理解析研究所)によれば、そのアイデアはいわば現代の数学では禁じ手になっているようなことも取り入れて何かできないことはないかということを考えるものであったという。すなわち、1+1は2でありながら1+1は5であるとか、2つの直線が交わるということが起こりながら交わらないとか、というように本来だったら矛盾が起こるようなことを活用できないか、というものであり、放送によれば、これは「本当であって本当でないことを数学に取り入れる」ものであった。
 放送では一例として「クレタ人はみなウソつきだ」というパラドックスが紹介された。なおこれは、89分完全版のみの内容であり、59分バージョンではカットされていた。

 望月博士はさらにポアンカレが提唱した「異なるものを同じと見なす」という現代物理学の原理原則を見直し、「同じものを違うと見なす」ことも重要だという考えるに至ったという。一度同じと見なしたものを違うと見なすという、行ったり来たりするような数学があってもいいのではないかということであった。なお89分完全版のほうではこのあと、京都・妙心寺・退蔵院の石庭の砂紋づくりのシーンが挿入されており、副住職の「石庭は特にルールはないんですね。一つを除いてですね。それは、『この狭い面積の中でも全宇宙を表現しなさい』、という暗黙のルールがあります。不文律ですね」と語る場面があった。

 さて、2012年8月30日、インターネットに突然、abc予想を証明したとする望月博士の「宇宙際タイヒミューラー理論」が発表された。この論文は世界中の数学者たちに注目されたが、論文を読み始めてみると、「宇宙」、「ホッジ劇場」、「エイリアンコピー」といった聞いたことの無い独自の用語に戸惑うことになった。それは人々がいつもやっている標準的なやり方とは全く違うものであり、また論理の展開も全く異なっており、エレンバーグという数学者は「まるで別の惑星から来た論文のようだ」と言ったという。

 放送ではそのあと、望月博士の理論について、一般視聴者にも分かりやすい?ような出発点の部分のみが紹介された。それは、1つの数学世界を「宇宙A」、もう1つの数学世界を「宇宙B」と名づけ、その2つの宇宙の間をつなぐ仕掛けを考えるものであった。ここでは宇宙Aの数に対して、それを2乗した宇宙Bの数をつなげるとする。宇宙Aでは7×8は56になる。いっぽう宇宙Bでは、7と8はそれぞれ49と64に繋がっているので3136に繋がる。いっぽう、宇宙Bの3136は宇宙Aの56と繋がっており、かけ算は2つの宇宙でちゃんと成立している。
 いっぽう、足し算では、宇宙Aの7+8は宇宙Bの46+64、すなわち113と繋がっているが、宇宙B113に繋がる宇宙Aの数はルート113であって、対応する整数は存在しない。よってこの2つの世界は、かけ算は成立するが足し算は成立しない数学世界ということになる。望月博士の戦略は、「かけ算だけが成立する世界を作り「abc予想」を証明するという、これまでに無かったアプローチであった。




 ここからは私の感想・考察になるが、同じであって同じでないということは日常世界ではよくあることかと思う。こちらの教科書1.4.のところにも述べたように、
 日常生活場面、例えばおつりを受け取る場合とか、自動販売機にコインを挿入する場合は、2 枚の 10 円玉は全く区別されません。ですので、「同じ」10 円玉と見なされます。ところが、よく見ると、1 枚は平成 10 年、もう 1 枚は昭和 33 年発行と書かれてあったとします。現行通貨の価値をまとめた Web サイトによると、10 円玉の発行枚数は年によって変わっており、昭和 33 年発行の 10 円硬貨は発行枚数が少なかったため、コインショップでは 100 円から 200 円で引き取られるとのことです。よって、コインマニアにとって は、2 枚の 10 円玉は全く違っていると扱われます。

 要するに、「同じ」とか「違う」というのは、それに関わる人のニーズによって異なるということです。但し、ニーズが異なるといっても、主観ではありません。それぞれのニーズに応じて客観的な判別基準があり、1つの基準のもとでは、「同じ」か「違う」かという判断は全員一致で下されなければなりません。
 もっとも、上に述べたことは「同じ、違う」の基準は有用性によって異なるという意味であり、宇宙際タイヒミューラー理論とな全く別物であるものと思われる。宇宙際タイヒミューラー理論はそれよりも、量子論の発想に似ているような気がする。

 あと、「クレタ人はみなウソつきだ、とクレタ人が言った」ということは、「クレタ人がおはようと言った」と同じレベルであり、言ったか言わなかったのかという事実確認としては真偽が決定できる。発言内容が内包する矛盾については、論理学や哲学の世界ではある程度解決しているのではないかと思っていた。いずれにせよ、「異なるものを同じと見なす」という現代物理学の原理原則を見直し、「同じものを違うと見なす」ことも重要だ、という新しい数学の考え方は、もはや既存の論理の枠組みの論争では決着しそうもない。その新しい数学がどこまで現実世界に有用な予測や応用をもたらすかにかかってくるように思う。

 次回に続く。