じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



03月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る


 室内に保管してあった昔の資料を整理していたところ、偶然、某家族の漢字テストの答案が出てきた。25年程前と推定される。30問のうち3つ間違えて91点という結果になっていたが、よく見ると、間違いとされたのは、
  1. しじゅう→四十
  2. きょうぎ→競技
  3. きょうかん→教官
の3問であった。しかし、これらはちゃんと日本語の漢字熟語であって、なぜ間違いとされたのか分からない。もし正解に含めるなら100点満点の答案になっていたはずだ。
 採点者が正解と考えていたのは、
  1. しじゅう→始終
  2. きょうぎ→協議、教義、狭義、経木
  3. きょうかん→共感、叫喚
あたりであったと推測されるが、四十、競技、教官はダメだという理由はどこにあるのだろうか。
 ちなみに、「教官」という言葉は、国立大学が国立大学法人となり、教員が国家公務員(=官職)でなくなったことで、文科省管轄の教育機関では死語になりつつある。私が岡山に赴任した時は、月1回の会議は「教官会議」と呼ばれていたが、法人化後は「教授会」に変更されている。

 なお、この漢字テストでは、他にも同音異義語の漢字熟語がいくつかある(いと→糸;たいか→退化、大火、耐火、対価、大過;かんこう→刊行、慣行、敢行、緩行;きょうちょう→協調、凶兆、橋長、共聴;てんとう→点灯、転倒;など)。同音異義語のどれで答えても正解とするか、あるいは文章題の中で同音異義語の中から適切な漢字熟語を選ぶか、というように問題形式を変える必要があるように思う。

2022年3月03日(木)



【連載】コズミックフロント「“幽霊粒子” ニュートリノの謎」(2)ニュートリノの存在確認

 昨日に続いて、2月24日に初回放送された表記の放送の感想・考察。

 放送では続いて、ニュートリノの存在がどのようにして明らかになったのか、研究の歴史が紹介された。

 まず、過去数千年にわたり、人々は、すべての物質は原子から成り立っていると考えていた。原子はその名称自体からも示唆されるように、原子は分割不可能な最小単位であると考えられてきた。しかし20世紀初頭、原子が最小単位でないことが明らかになってきた。
 まず、原子自体の大きさはおよそ0.1ナノメートル(1メートルの100億分の1)であるが、その原子の中心にはさらに1万分の1の大きさの原子核があることが分かった。また原子核の周りには電子が回っていることが発見された。
 もう1つ、当時の物理学的常識ではあり得ないことと、原子が壊れるという現象(ベータ崩壊)が発見された。そのさい、エネルギー保存の法則に反して、ベータ崩壊の後ではエネルギーが少なくなっていることが分かった。その失われたエネルギーの行方について、エンリコ・フェルミ(1901〜1954)がこの難問に取り組んだ。フェルミは26歳の若さでローマ・ラ・サピエンツァ大学の教授に就任し、世界トップクラスの研究グループを指導した。フェルミたちの仮説は、電子とは別の未知の粒子があり、ベータ崩壊の際にそのエネルギーを運び去ったというものであるが、提唱した当時はあまりにも突飛で受け入れられなかった。フェルミたちはその粒子を「電磁気的に中性の小っちゃいやつ」という意味で「ニュートリノ」と名づけた。フェルミは妻がユダヤ人であったことからファシスト政権の迫害を逃れてアメリカに移住し、原子炉の開発に従事した。なお、ウィキペディアによれば、フェルミはアメリカの原子爆弾開発プロジェクトであるマンハッタン計画でも中心的な役割を演じたが、その後の水素爆弾の開発には倫理的な観点から反対をしている。その後シカゴ大学で宇宙線の研究を行ったが、1954年、癌により死去した。

 第二次世界大戦後、ニュートリノ研究は新たな局面を迎えた。米ソの軍拡競争により核実験が繰り返し行われた。ロスアラモス国立研究所のフレッド・レインズ(フレデリック・ラインズ(Fred Reines、1918-1988。ウィキペディアではフレデリック・ライネス))は同僚のクライド・カウアン(Clyde Cowan、1919-1974、ウィキペディアではクライド・カワン)が、核実験を利用してニュートリノの検出を試みた。プロジェクトは「ポルターガイスト」と名づけられた。爆発の衝撃を避けるために50mほどの縦穴を掘って検出器を設置するという構想であったが、核実験を研究に利用することは上層部から却下された。しかし、彼らは、原子核から放出するニュートリノを捉える代わりに、原子核に吸収される時の反応を検出するという逆転の発想で研究を続けた。ニュートリノが原子核と相互作用を起こして吸収される過程では、中性子と陽電子が放出されるとともに「2つの光」が放たれる。彼らは原子炉の地下に溶媒で満たされたタンクを置き、着手から5年を経た1956年に「2つの光」の検知に成功した。

 ここからは私の感想・考察になるが、いま上に述べた部分は分かりにくいところがあった。まず、核実験を研究に利用する計画は結局実現せず何の発見ももたらさなかったのか、それとも何かの発見があったのかは分からない。またそのあとの「2つの光」については特段の説明は無かったように思う。ウィキペディアには、
1953年から原子炉で発生したニュートリノをクライド・カワンとともに検出する実験を行った。ニュートリノは電荷を持たないので、検出は困難であり、ライナスらは陽子・中性子に衝突させて荷電粒子による蛍光を捕らえる方法をとった。ニュートリノの発生源は最初核爆発実験の直下に置いて実験することも検討したが実現しなかった。1953年に原子炉の炉心から2mほどの位置に検出装置を置き、原子炉の運転によって信号の増えることを確認した。1954年から大型の装置をつくり、ニュートリノの発生頻度を計測し、理論で予測されていたニュートリノの存在を証明した。
という記述があり、「2つの光」とはどうやら「荷電粒子による蛍光」を意味するようであった。【しかし、それがなぜニュートリノの存在証明になるのかは分からなかった】

 それはそれとして、ニュートリノを予想する仮説は、もともとは、ベータ崩壊がエネルギー保存則を満たさないことを説明するために提唱されたということであるが、そもそもエネルギーとは何かということが私にはいまだに理解できていない。高校の物理で習ったことでは全く納得できないし、ウィキペディアの説明は私の能力では到底理解できない。エネルギー保存の法則についても、そもそもそれが理論的に証明された法則なのか、経験則なのか、あるいは未知の物質や現象を分析する際の作業仮説なのか、...隠居人の耳学問のレベルでは、死ぬまでに疑問を解消することはできそうにもない。

 次回に続く。