じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 12月21日の日没と、12月22日の日の出の写真。12月14日の日記に記したように、これらが、最南の方位からの日没と日の出となる。


2021年12月22日(水)



【小さな話題】歴史探偵「忠臣蔵 世紀の“劇場型”事件」

 12月15日に初回放送された表記の番組を録画・再生で視聴した。

 1703年1月30日(旧暦の元禄15年12月14日)に起こった赤穂浪士のたちの討ち入りについては、「仮名手本忠臣蔵」や、映画、ドラマなどで広く知られているところであるが、感動を高めるためにさまざまな形で創作されていて史実と異なる部分が多数指摘されており、よく分からないところがある。今回の番組では、

●赤穂浪士の討ち入りは、吉良の排除を目論んでいた幕府のお膳立てのもとで行われた。

というような説が紹介されていた。

 まず、浅野内匠頭による刃傷事件のあと、吉良が江戸城から遠く、警備の薄い本所に引っ越しを命じられたことが指摘された。ちなみに、吉良邸のあった本所には、本所松坂町公園が残っているが、広さは約98平米に過ぎない。討ち入り当時の吉良邸は、この公園を含めた8400平米の敷地にあったという。岡大で言えば、文法経の建面積5823平米や、教育学部の建面積7471平米よりも広く、吉良上野介を見つけるのは大変であったろうと推測される。
 この本所の吉良邸は、1701年3月の刃傷事件の数ヶ月後に、呉服橋門内の屋敷が召し上げられて強制的に引っ越しをさせられたものであった。番組の依頼で専門家が調査したところ、1701年当時、昇進・降格や代替わりなどで20件ほどの旗本の引っ越しが記録されているが、江戸城に近づく引っ越したは6件、江戸城から遠ざかった引っ越しは吉良邸を含む2件であった。当時、「本所は場末にて辻番のしまりが悪い」(『堀部家覚書』)といった記載があり、警備の手薄だった場所への異例の引っ越しであった。実際、吉良邸が引っ越ししていなければ、討ち入りは不可能であったという。

 討ち入り前に赤穂浪士たちが潜伏していたことについても謎が残るという。いくら町人に変装しても仕草や言葉遣いや方言でバレてしまう。幕府が潜伏に気づかなかったというのはあまりにも不自然であった。

 続いて、あさりんによる社会心理学的分析が行われた。あさりんが赤穂出身であったとは存じ上げていなかった。あさりんは、大石が江戸の浪士たちに送った手紙の効果、大石が事件現場から離れたところにいたため、より客観的に事件を受け止めることができた、といった説明がなされたが、うーむ、明晰かつ手堅い分析で知られるあさりんとしては、なんだか歯切れが悪く、ワイドショーに出演する「心理研究家」レベルの後付けの解釈に終わっているような気がした。

 番組ではさらに、討ち入りを果たした浪士たちが吉良邸から泉岳寺まで3時間におよぶ行進をしたことについて、いくつかのエピソードが紹介された。本来であればこのような行進が行われれば、旗本や役人が駆けつけて阻止するはずであるが、実際には誰も駆けつけず、逆にお茶を勧めた番人もいたという。幕府にとって、吉良家は朝廷と幕府をつなぐ旧体制の象徴であり邪魔になっていた。刃傷事件自体は偶然であったが、結果的に幕府はこれを利用して、吉良家を高家から解任した。

 もう1つ、討ち入り事件のあと、江戸の関門が、札の辻から泉岳寺の近くの高輪大木戸に移されたが、これにより江戸から出る人や江戸に入る人が泉岳寺にお参りする機会が増え、赤穂浪士の活躍を世に広まった。もしかすると、これも幕府の演出であった可能性があるという。

 番組の終わりのところでは、討ち入り以降、幕府が、
  • 吉良家は領地を召し上げ、お家断絶。
  • 浅野大学は大名にはなれなかったが旗本に取り上げられた。
ということで、幕府が赤穂浪士側に好意的な措置をとったことも紹介されていた。

 ここからは私の感想になるが、ウィキペディアでも詳細に記されているように、そもそも、赤穂事件の発端となった「遺恨」について、いまだ多くの謎が残されている。これを解き明かさないと、その後の展開についても学術的な分析は難しいとは思う。但し、タイトルの通り、劇場型の事件として利用されたことは確かであり、きっかけ自体が偶発か必至かは別の問題と言えるかもしれない。
 とにかく、創作の世界では、ある集団が固い絆で結ばれ目標達成のために努力したというプロセスが重要であり、「仇討ち」としての必然性は二の次なのだろう。