じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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このところ、中部地方を中心に長雨が続いている。12月7日6時現在の72時間積算降水量は、
  • 三重県尾鷲 55.0ミリ
  • 岐阜県岐阜 18.5ミリ
  • 愛知県名古屋 13.0ミリ
などとなっており、雨が降る地域はその後近畿地方や東日本全体に広がるという。

 興味深いのは、岡山より西の地域は晴れており、また天気図上は、降雨地域の近くには低気圧や前線が無いという点である。
 太平洋上の高気圧の西側の縁を時計回りに吹き込む湿気の影響であろうと思われるが、この時期にこういう状態が長引くというのは珍しいようにも思える。


2021年12月07日(火)



【連載】瞑想でたどる仏教(11)大乗仏教、空(くう)

 12月03日に続いて、NHK-Eテレ「こころの時代」で、4月から9月にかけて毎月1回、合計6回にわたって放送された、

●瞑想でたどる仏教 心と身体を観察する

の備忘録と感想・考察。

 第3回の後半では、何が仏教であり、何が仏教ではないかという際(きわ)の問題が取り上げられた。前回も述べたように、仏教は戒律の多様化に伴いさまざまに分派していった。その中で、仏教としてここだけは譲れない、という前提条件がどこにあるのか、興味をいだかせる話題であった。

 蓑輪先生によれば、
いちばんの根底にあるのは、私たちの持っている悩み・苦しみからいかに解放されていくかという道筋を示してくれたのが釈迦であり、それ以外のところについては様々なものを柔軟に認めていく。いちばん根底にあるのは心身を観察していくということであり、そこから、あらゆるものは私たちの心が作り出しているものでありこだわらなくていいよ、と考えるのが仏教。仏教は、体験の宗教であり、悩み苦しみを超えていくために心身の観察「瞑想」がきちんと存在しており、そこをちゃんと受け継いでいれば問題ないと考えていたのではないか。ですから、瞑想に関してもさまざまな新しい考察の対象が認められていった。仏教は非常に寛容性に富んでいて、多様性を肯定する姿勢があった。【あくまで長谷川の聞き取りによる要約】
 為末さんも「そもそもが執着から離れよという教えがあるから、多様性を否定するとそれ自体が執着しているみたいになる。当然、教えが寛容になっていくのではないか。」と述べておられた。

 また蓑輪先生によれば、仏教における「信」とは、みずから体験して確認する「信」であり、バクティのような「信」とは異なる。このあたりにも唯一神への絶対的帰依を求める宗教とは異なる特徴があるようだ。



 ブッダの死後300年ほと経った紀元前1世紀頃には、部派仏教では、悟りの世界を言葉で分析しているうちに、いつのまにか悟りの世界にはたどり着けないようになってしまった。こうした解釈論に陥っている部派仏教に対して大乗仏教が新たに生まれた。
 大乗仏教の瞑想では、「空」(物事には実体がない)が強調されるようになった。例えば「家」は、柱や屋根や壁から成り立っているが、分解すると、ただの建材になってしまう。これらがお互いに関係し合って【概念としての】「家」が成り立っている。

 2世紀頃に活躍した龍樹(ナーガールジュナ)の時代には、空と縁起の概念を使い「世の中に存在しているものはすべて空である。なぜかと言えばそれは縁起によって成立しているものだから」という説明がなされるようになった。

 ブッダの初期の仏教では、縁起とは、「ある事物が存在→それを観察する意識が生じるという」という一方向の関係性を表していたが、大乗仏教では、一方向の関係性が双方向として捉え直されることになった。上に挙げた「家」を例にとれば、家は実体そのものではなく、関係性によって構成された存在であるゆえ、空となる。自分と他者との関係も同様であり、境目が曖昧になる。こうして、いっさいのものは空であり、物事には固定不変の実体というものは存在しないと考えることで、こだわりが無くなり楽になっていく。

 ここからは私の考えになるが、ネットで検索したところでは、龍樹は中観派の祖師であり、これとは別に瑜伽行唯識学派というのがある。唯識については2019年3月頃にこのWeb日記でも取り上げたことがあるが、龍樹との関係は勉強不足で全く分からない。

 「縁起」については11月30日でも取り上げたところであるが、「随伴性」の発想によく似たところがあるように思う。
 私自身は、少なくとも宇宙とか、素粒子のレベルでは、この世界は確かに存在していると考えている。しかし、人間は、あくまで、実体験と言語行動を通じて身の回りの世界を認識しているのであり、それを可能にしているのは随伴性、つまり縁起であると言える。上掲の「家」も、確かに建材の集合体に過ぎず、絶対的な存在ではない。共同体の中で、建材の集合体のうちのあるものを「家」と呼ぶのは、それが有用であるからに過ぎない。また「建材」自体も有用性に基づいて形成された概念に過ぎず、実体そのものではない。地球上の人類が、共通した概念を構成できるのは、あくまで生活環境や生活様式に共通性があるからに過ぎない。なので、環境が異なる部分については、微妙な差違が生じる。気象現象、家畜、作物などの呼称がそうだと思うが、細かく区別することが有用であれば呼称は細分化されるし、そうでなければ大ざっぱな呼称となる。

 もっとも、そうは言っても、実世界とバーチャルな世界はある程度区別するべきであろう。どんなにRPGにハマっている人でも、ゲームの中で獲得した食料では生き延びることはできない。レストランで提供された料理を目の前にして、これは空であり、食べても食べなくても変わらないといくら主張しても、腹が減っていれば、最後は口にすることになるだろう。食べ物が「空」であるという意味は、「摂取することで栄養上有用である事物」と「摂取しても意味のない事物(もしくは有害な事物)」という区別が縁起によって構成されているというだけのことであり、この世界の食べ物が空っぽでありすべて無価値であるという意味ではない。

 不定期ながら次回に続く。