じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 ウィキペディアはほぼ毎日利用させていただいているが、最近、アクセス直後に、寄付依頼のメッセージが流れるようになった。SNS上でもこのことが多少話題にのぼっているようである。なお、このメッセージは英語版でも表示されているが、ターゲットはあくまで日本人利用者であるようだ。

 いつもお世話になっているので300円程度だったら進んで寄付させていただきたいところだが、私が不安に思うのは、オンライン上でクレジットカードを使うことの安全性である(クレジットカード以外に、PayPalによる方法があるようだが、私はそもそもPayPalがどんなものだか知らないし利用するつもりもない)。もっと別の方法、例えば、クレジットカード利用で貯めたポイントを、クレジット会社経由で寄付するというような方法にすれば、安心して寄付できるようになると思う。あるいは、ふるさと納税取り次ぎ会社でウィキペディアへの寄付を取り次ぐという方法もある。

 あと、このメッセージの中に「率直に申し上げます。私たちの読者の98%は見て見ぬ振りをして、寄付をしてくださいません。」という部分があるが、これは日本人向けの寄付依頼のスタイルとしては不適切であると思う。これを読んだ人は、「おい、お前は見て見ぬ振りをするのか? ただ乗りは許さんぞ、さっさと金を払え!」と糾弾されているような気持ちになってしまう。
 日本人に依頼をする場合は、上記のような文ではなく、「これまでこんなに多くの方からご寄付をいただいています。ご協力に感謝します。」というようにするべきであろう。要するに、寄付しない人をけなすのではなく、あくまで寄付してくれている人たちに感謝の意を示すことが肝要だ。公共トイレに「いつも綺麗に使っていただいてありがとうございます」という張り紙をするのと同様。その張り紙を見ると「私も綺麗に使おう」という気になるのだ。(←もし、代わりに「98%のくそったれどもはトイレを汚していてけしからん!」という張り紙があったとしたら、「どうせ世間は悪人だらけだ」とか「そうか、くそったれどもはトイレでもくそったれだったのか」という気分にしかならない。)

2020年9月12日(土)



【連載】「刺激、操作、機能、条件、要因、文脈」をどう区別するか?(3)手続段階と理論段階からみた「強化」

 昨日の日記の最後のところで、行動分析学には少なくとも2つの用語体系があり、同じ文字を使った用語であっても、その定義や、その用語が指し示す内容が異なる場合があるのではないかと述べた。一口で言えば、
  • 手続段階:再現可能性を前提とした操作的定義
  • 理論段階:帰納的に集約された概念(←構成概念ではない。念のため)
ということになるかと思う。

 このうち「手続段階」は、実験手続のところで用いられる用語体系である。この場合、行動する人や動物と別に、第三者として実験者が関与している。つまり、実験者がどういう操作をしたのかを、再現可能な形で記述するための用語体系ということになる。

 「手続段階」は、実験的分析以外の、学校教育場面や臨床的支援場面にも当てはまると思われるが、私自身はその方面での実践経験が乏しいので何とも言えない。但し、学校教育場面や臨床的支援場面は、日常生活全体がかかわっているため、もっと巨視的(全人的)、かつ、中長期的(数年〜数十年)な視点に基づいて用語体系が構築されるべきであるとは思う。それらの場面においても随伴性ダイアグラムは有用であろうが、それは、行為者の生活のごく一部を切り取って検討しているに過ぎない。介入・支援の有効性は、個別の行動の増減という結果の有意性だけで評価されるのではなく、対象者(当事者)の全生活の中で中長期的に検討されるべきであろうとは思っている。

 さて、元の話題に戻るが、手続段階の用語は、実験者の「操作(operation)」と、その結果として観察された変化との関係で記述される。これに対して、理論段階では、「操作」は、実験者の介在を含まない事例(自然の変化など)を含んだ別の用語に置き換えられるべきであろうと私は思う。
 「強化」を例に挙げるならば、
  • 行動の直後に提示されることでその行動を強化するような刺激や出来事は強化子(好子)
  • 行動の直後に除去されることでその行動を強化するような刺激や出来事は弱化子(嫌子)
というのは、「提示」や「除去」という操作を含んでいるので手続段階の用語体系と言える。理論段階であれば、
  • 行動の直後に出現することでその行動を強化するような刺激や出来事は強化子(好子)
  • 行動の直後に消失することでその行動を強化するような刺激や出来事は弱化子(嫌子)
というように「提示」は「出現」、「除去」は「消失」に置き換えることが妥当であるように思われる。

 上記の例を挙げたついでに、「強化子(好子)の定義はなぜ循環論にならないのか」という話題にふれておこう。リンク先に述べた「場面間転移性」や「制御可能性」というのは、あくまで理論段階での話である。いっぽう、

●ラジオ体操集会になかなか参加しなかった子どもに、参加するたびにシールを与えたところ、毎朝参加するようになった。

というような事例から「シールは参加行動の強化子(好子)として機能した」と結論し、同時に「シールで強化されたから参加行動が増えた」と説明することは、必ずしも循環論法にはならない。というのは、上記の●は、強化子(好子)の定義ではなくて、あくまで「シールが強化子(好子)であった【正確にはシールは強化子(好子)として機能した】」という発見について述べているのであって、強化子(好子)を定義しているわけではない。ひとたびシールが強化子(好子)であると分かれば、一般に知られている「場面間転移性」や「制御可能性」の法則が適用できるので【例えば、シールをドリル完成のご褒美としても与えるとか、シールの枚数を変えることでもっと行動を増やすとか】、そのぶん応用範囲が広がる(もし「循環論法」であるとすると、そういう記述は単なる言い換えに過ぎず、何1つ応用範囲が広がることはないはず)。

不定期ながら、次回に続く。