じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 岡大構内の紅葉の写真を撮りに久しぶりに農学部構内まで出かけたところ、まだ数本のヒマワリが咲いていた。かつては、春は菜の花、夏はヒマワリ、秋はコスモスのお花畑になっていたことがあったが、今年はこの場所ではコスモスは育てられていなかったようである。

2019年11月8日(金)



【連載】『赤ちゃんはことばをどう学ぶのか』(4)モノには名前があるか?

 11月6日に続いて、

 針生先生の『赤ちゃんはことばをどう学ぶのか』の第1章の感想。
 昨日も述べたが、「モノに名前があることを理解」というのは、あくまで認知心理学的な表現であって、行動分析学的アプローチはそのようには考えていない。名前というのは、外界のさまざまな事象、他の人、使うモノなどを、人間が共同生活に便利になるようにカテゴリー分けして、特定の音声や文字などを対応づける反応であって、モノそのものに備わった属性ではない。【こちらに色名に関する関連記事あり。】

 どのようにカテゴリー分けするのかは、それぞれの言語コミュニティに生活スタイルや自然環境によって異なる。といっても同じ地球上に住んでいる以上、それなりの共通性もある。2つの言語の間でカテゴリー分けが全く異なっていたとしたら、英和、和英といった辞書を作ることはできない。

 モノの名前としてどのような音声や文字を対応づけるのかについては、「非恣意的」と「恣意的(arbitrary)」という2つのタイプがある。イヌを「ワンワン」と呼んだり、象形文字、あるいはその変形となった、「山」や「川」、漢数字の「一、二、三」といった文字で対応づけることは「非恣意的」と言える。また、ブーバ/キキ効果として知られるように、ある種の擬態語もまた「非恣意的」な対応づけである可能性が高い。そういう意味では、人類の祖先までたどれば、どのような文字も音声言語も、実物と、何らかの非恣意的な関係でつながっていた可能性はある。

 とはいえ、現在、我々が使う殆どの言葉と、それに対応する実物との間には、必然的な関係は見られない。また、何らかの事情で、違う呼称に切り替えたり、外来語と入れ替わってしまうこともある。そういう意味では、モノと名前は殆どが恣意的に対応づけされているといってよいだろう。

 でもって、「モノに名前があることを理解」ということの本質は、それぞれのモノに対して、恣意的な関係にある音声言語や文字を対応づけられるようになることを意味している。また、そのような対応づけ行動は、マンド、タクトといった機能を持つことで強化され、より高頻度で使われるようになると考えられる。要するに、モノの名前を覚えるというのは、「○○が欲しい」というような発話を通して(マンド)、あるいは、「○○はあそこにあった」というように相手に報告して(タクト)相手から喜ばれたりすることで身についていくのである。

 本書の35ページでは、ヘレンケラーの感動的な場面についての言及があった。サリバン先生が、ヘレンケラーの片手に水をかけ、もう片方の手のひらに「water」という文字を綴ったところ、ヘレンは“雷に打たれたように”立ちすくんだというエピソードである。ヘレンはこの時初めて、モノに名前があることに気づき、その直後からいろいろなモノの名前を尋ね、次々と覚えるようになったと伝えられている。

 このエピソードは、ドラマや映画でかなり脚色されており、仮に本人がそう語っていたとしても記憶そのものが変容している可能性もあり、確かなエビデンスであるとは言い難い。事物と綴りを触覚的に同時提示するというプロセスが繰り返されれば、いずれは対応づけが学習されるはずである。学習された対応づけの種類が爆発的に増加するようになった現象を“雷に打たれたように”と比喩的に表現したといいうのが真相であり、それを繰り返す中で「対応づけできること」イコール「モノに名前がある」という実感を経験していったのではないかと私には思われる。

 不定期ながら、次回に続く。