じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 紅葉シーズンも終盤となってきた。時計台前の芝地にはアメリカフウの落ち葉が積もっていた。モミジバフウとも言われるように、葉っぱはモミジの葉のように5裂〜7裂している。

2017年11月19日(日)


【思ったこと】
171119(日)五木寛之『孤独のすすめ』(10)嫌老感

 11月16日の続き。

 第3章は「老人と回想力」というタイトルになっている。冒頭では、咀嚼や立ったり座ったりする時に、「薬のカプセルを二つ飲むぞ」、「水を口に含んで飲み下すぞ」、「今から座るよ」、「今から立つよ」というように自分の動作を言語化するやり方である。行動分析学的に言えば、言語化することで、弁別刺激に基づいた確実な遂行が可能になる。指差喚呼(しさかんこ)と同様といってよいだろう。

 続いて取り上げられているのが、「嫌老」という感覚である。この言葉は続く章で何度も出現しているが、もともとの使われ方は、老人自身が社会に対する違和感を覚えることに発したものであり、若者の側が老人を嫌うという意味ではないことが分かる。要するに、「若者が老人を嫌うこと」ではなく、「老人が若者から嫌われているように感じること」というのが発端であったようだ。

 もっともそのあとの節では、「日本社会に広がる嫌老感」という表現がある。広がっているかどうかは生産人口世代の側の感覚であるはずで、「嫌老感」の主体が入れ替わっている(すり替わっている?)ようにも見える。

 確かに、高速道路での逆走や、アクセルとブレーキの踏み間違いによる事故など、高齢者が引き起こす問題が無いわけではない。といっても、青少年が引き起こす非行や犯罪が減ったわけでもない。批判の矛先が若者から高齢者に向けられるような変化があったのかどうか、今ひとつ根拠に乏しいようにも思われる。さらに、11月13日にも述べたように、多くの若者は自分の両親や祖父母から何らかの援助を受けているはずで、何らかの社会的対立があっても、実際の利害は家族単位で生じるものである。しかも、仮に「若者階級」の立場から「年寄り階級」を批判している人がいたとしても、30年〜40年後には、その人自身が年寄り階級の仲間入りをせざるを得ないわけで、主張の一貫性を守ろうとすると自己矛盾に陥る恐れがあるように思う。

次回に続く。