じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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 妻の実家のある北九州に帰省中、槻田川沿いを散歩した。川面に日が当たりキラキラ輝いている場所には、地元の小学生の創った「槻田川 川の音色に 光あり」という句を記した幟が取り付けられていた。おそらく、こうした光景を目にして浮かんだ句ではないかと推測される。

2017年11月6日(月)


【思ったこと】
171106(月)日本行動分析学会第35回年次大会(22)超高齢社会における行動分析学(20)終末期の迎え方(5)

 11月2日の続き。

 話題提供は、私の持論である「人生の出口」メタファーで締めくくった。「出口」というのは時間軸上の人生を終わりを空間的位置に置き換えたメタファーである。

 自由主義社会では、終末期の迎え方はその人の健康状態、家族の状態、経済状態、周辺の環境などによって大きく異なるゆえ、「これがベスト」というような普遍的なスタイルは存在しない。それぞれの人が個人的事情に合わせて最善の終わり方を模索するほかはないと思う。Skinner & Vaughan (1983)も、
あなたが信じている宗教や哲学がすでに答えを与えてくれているのなら、本書の意見は無視していただいて結構です。」(大江訳)
 天国が虚構であろうとなかろうと、現世の出口の先には天国の入口があるという想定のもとに何かの準備をするという行動が強化されるのであれば、結果的に前向きな活動を継続できるかもしれない。もっとも私自身は今後とも、虚構を受け入れるような道は決して選ばないだろう。

 ということで、私の「出口論」は、
  • 「出口」というのは1つの地点であってそこを通過することにはそれほど大きな意味は無いというメタファーとして考えることができれば、出口自体についてあれこれ考えるよりも、出口につながる路上の「いまここ」の過ごし方に関心が向けられるようになるだろう。
  • 動植物園であれ博物館・美術館であれ、出口付近には出口でしか味わえない新たな感動が用意されている。寝たきりのままで虫の声を聴いたり、窓際に置いた鉢物の成長を観察したり、日常生活のごく当たり前の所作の1つ1つを味わったり、といったように健康時には注意を向けなかった小さな変化に感動をおぼえることもあり、それらはすべて人生にとって大切な発見である。
という内容となっている。

 なお、以上のような「出口論」に対して、人生を「登山」、高齢期から終末に向かうプロセスを「下山」に喩えるという考え方もあるが(例えば、五木寛之(2017)『孤独のすすめ 人生後半の生き方』)、私自身は、「登山&下山」には馴染めないところがある。その主な理由は、
  • 人生は1つの山を登って下りるというほど単線的なものではない。むしろいろいろ寄り道をしたり、同じ場所を歩き回るなど、複雑な径路をたどるものである。
  • 高齢期を下山に喩えてしまうと、ふもとまで戻らなければならず、その途中で行き倒れになってしまったら中途半端な人生になってしまう。出口論であれば、最寄りの出口から出るか、もうしばらくウロウロしてから出るかといった選択が可能。
  • 人生を「登山」に喩えてしまうと、登った山を振り返ることが人生の評価に繋がるように思えてしまうが、「いま・ここ」を生きる上では過去にどういう山を登ったかということはそれほど重要ではない。
といった点にある。この、五木寛之(2017)『孤独のすすめ 人生後半の生き方』については別途感想を述べさせていただくことにしたい。