じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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 理学部西側の芝地のブタナ。毎年この時期に一斉に花を開く。過去記録が以下にあり。

2017年5月12日(金)



【思ったこと】
170512(金)ボーム『行動主義を理解する』(4)実在論

 昨日に続いて、

ボーム(著)森山哲美(訳)(2016).『行動主義を理解する―行動・文化・進化―』 二瓶社.

の話題。

 本書(第二版の翻訳)の第2章ではまず、実在論と実用主義について語られている。実在論というは要するに、この世界が我々とは独立して存在しているという考え方であり、私自身はこれは正しいと思っている。しかし、人間は行動を通じてその世界と関わっており、それぞれの個体にとっての世界は、我々と「独立した」世界ではなく、我々が「関わる」世界である。じっさい、定義上、「我々と独立した世界」は見ることも感じることもできない。我々が見る世界というのは、「見る」という行動を通じて構成された世界であって、それ以上でもそれ以下でもない。

 それでもなお「我々と独立した世界」を考える必要があるとしたら、それはおそらく、
  • この世界の物質やエネルギーの成り立ちを知ろうとする場合
  • 人類が誕生する以前の世界や、人類が滅亡したあとの世界を知ろうとする場合
などであろう。ちなみに人類が滅亡する可能性としては、
  1. 大量破壊兵器が偶発的、もしくは何らかの狂信的支配者によって使用された場合
  2. 反物質などに関わる大規模な実験により統制不可能な自体が発生し地球が破壊される場合
  3. 研究上の事故、または自然発生的に、致死率100%の感染症が蔓延した場合。
  4. 太陽系全体がブラックホールに呑み込まれてしまう場合。
などが考えられる。いずれの場合も、人類は、自らの存在とは独立した力によって滅亡するが、それでもなお、宇宙規模での世界は何事もなかったかのように存在し続けるであろう。(←もちろん、さらに広い世界を考えれば、宇宙全体が凍りついたり凝縮して1点になったり、という形で存在を終えることはありうる。)

 とにもかくにも、我々が行動する時に接する世界というのは、定義上「我々と独立した世界」ではない。我々をとりまく世界を1立方メートルごとに区切って、その中の分子構成やエネルギーをいくら精密に測定したところで、何ひとつ理解したことにはならないのである。

 少々脱線したが、本書(翻訳書26頁)のほうでは、バークレイ(ジョージ・バークリー)の「人間の知識の原理」(人知原理論)が紹介されていた。リンク先にもある通り、バークレイは、「存在することは知覚されることである」(羅: Esse est percipi、英: To be is to be perceived )という基本原則を提唱したとされている。

本書によると、バークレイ後の哲学者の中には、感知し得る対象が存在するということについての彼の疑念を受け継ぎ、世界の対象は推測でしかない、あるいは語り方でしかない、という考えを受け入れた。しかし、科学の哲学者たちは、実在論にこだわり、バークレイの主張と異なる方法で取り組もうとした。その1つとして、バートランド・ラッセルによる感覚データという概念が紹介されていた。
感覚データは内的なものであり、主観的なものである。しかしそれは、「外部に存在する」客観的な現実の世界を理解するための手段である。
 本書29頁にまとめられているように、実在論は、
  • 実在論の枠組みでは、説明は、物体が実際に存在する方法を発見することからなる。
  • 物体の作用について、その根底にある真理がひとたび発見されたなら、私たちが知覚している事象は説明される。
というように特徴づけられる。ここからは私の解釈になるが、実在論によって記述される世界は究極的には1通りであり、もし複数の矛盾する世界が想定されていたとしたら、それらは科学的方法によって1つに統合されていくはずである。これに対して、我々が関わる世界は、ニーズに基づいて構成される世界であり、何が同じで何が異なるかという基準自体もニーズに依存しており、1つに集約できるものではないという別の考え方が出てくる。

 次回に続く。