じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 1月15日(日)は皇后盃 第35回全国女子駅伝が京都で行われた。このレースの模様はほぼ毎年、中継または録画再生で観戦しているが、こんなに雪が降っているのを見たのは初め。特に折り返し点付近から北白川のあたりはあまりにも激しく雪が降り、画面が真っ白で選手が見えないほどであった。低温による事故は無かったのが幸い。
 この日の朝のニュースで京都で積雪9cmと伝えられた。こういう日は、その気になれば朝一番に新幹線で岡山を出発すれば、雪の金閣寺の絶景を開門直後に眺めることができる。こちらに2012年の写真あり。

2017年1月15日(日)




【思ったこと】
170115(日)二人称や三人称の苦悩(4)ルール支配行動と自己(1)

 1月14日の続き。

 この連載では「一人称の苦悩」と「二人称や三人称の苦悩」について概観したが、そもそも苦悩の分析や解決において、人称表現が必要なのかどうかについて、再考しておく必要がある。

 確かに「苦悩」というのは、私が主語となって苦しみ悩むことではあるが、純粋に機能主義的に捉えた時に、「自己」を前提とする必要があるのかどうか、しっかりとおさえておく必要があるだろう。

 行動分析学では、基本随伴性は、先行事象(Antecedent)と行動(Behavior)と結果(Consequence)により記述され、先行事象における刺激や出来事は「弁別機能」または「動機づけ機能(確立操作)」、結果における刺激や出来事は「強化的機能」または「弱化的機能」を持つとされている。この枠組みで行動を説明する限りにおいては、人称表現は全く必要ではない。私が行動する場合も、あなたが行動する場合も、行動原理は区別されない。単に、行為主体が誰なのかを示しているだけと言えるだろう。

 行動分析学の発展型の1つである関係フレーム理論では、苦悩の多くはルール支配行動の悪循環によって生じるとされている。但しその場合も、必ずしも人称表現は必要とされない。人称表現が登場するのは自己の3つの側面、とりわけ「物語としての自己」(=「概念としての自己」、クライエント向けには「思考する自己」)に関する記述である。クライエント向けの分かりやすいツールとして「自己」を使うことはアリだとは思うが、それが理論上本当に必要かどうか(より有用であるかどうか)についてはもう少し考えてみる必要があるように思う。

次回に続く。