じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 1月14日(土)からセンター試験が始まった。岡大周辺では、送迎車の一時駐車で渋滞が起こらないように、交通規制が行われていた。

2017年1月14日(土)




【思ったこと】
160114(土)二人称や三人称の苦悩(3)一人称複数の悩み

 1月12日の続き。

 一人称で語られる悩みとは別に、「私たちは」を主語とした一人称複数の悩みがあるはずだ。家族全体の問題、会社全体の問題、国全体の問題などがこれに含まれる。

 もっとも、「私たち」というのは幻想に過ぎず、「自分自身」という個人の視点の般化、もしくは、個人の視点から作られた特殊な概念・物語であるという可能性もある。ACTの自己の3つの側面の言葉を借りるなら、自分自身については「視点としての自己」、「プロセスとしての自己」、「概念(物語)としての自己」の3つの側面があるが、「私たち」に関しては、「概念(物語)としての私たち」のみに過ぎないという考え方も成り立つ。何かの共同作業を遂行している時には、なんとなく「プロセスとしての私たち」が存在しているように感じるし、団体競技の選手たちが共通の目標のもとにお互いの役割や連携を考える時には「視点としての私たち」があるようにも思えるが、これらは擬似的なものであって、どんなに一体化しても共感しても、1つにはなり得ないという考えである。

 いずれにせよ、「私たち」とは何かということ自体は、あまり生産的な議論にはならないだろう。重要なことは、「私たち」に関する苦悩が生じた時に、それを「私」の苦悩と同じやり方で解決していくのか、それとも、「私たち」を「私」と「私たちから私を取り除いた他者」に分離した上で、「私」と「他者」との関わりの問題として解決していくほうがよいのかという点にある。1月12日にも述べたが、その人の置かれた状況や、他者との関係によっても変わってくる可能性があり、プラグマティズムの真理基準に基づいて、ケースバイケースで対応していくほかはないのかもしれない。

 「私」と「私たち」の違いを考える上でもう1つ留意すべき点は、前者は、生まれてから死ぬまで一貫した存在であり続けるということ。いっぽう「私たち」は好むと好まざるとにかかわらず常に変化し、時には消滅したり、別の文脈で新たに形成されたりするという点である。もっとも、「私」にかかわる不変性、一貫性は幻想に過ぎないという議論もある。関係性の中で「私」が規定される部分と、関係性が築く「私たち」は、殆ど同じ意味といってもよく、関係性の中に作られた「私たち」の部分として「私」が存在していると考えることもできるだろう。

 次回に続く。