じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 今年の岡大・ホームカミングデイは10月22日に五十周年記念館および各学部で開催された。写真は当日朝の開始直前の様子。この日の午後は時おり小雨模様となったが、各種行事は無事に執り行われた模様。

2016年10月23日(日)




【思ったこと】
161023(日)2016年版「人はなぜ○○するか?」(11)人生の根本問題

 10月20日の続き。今回は、寄せられた疑問のうち、人生の根本問題にかかわる、
  • 人はなぜ生きるのか
  • 人はなぜいずれ死ぬのに生きるのか
  • 人はなぜ存在するのか
について考えてみることにしたい。

 これらはいずれも「存在」に関わる疑問であり、(質的変化を含む)変化の原因をさぐり「予測と影響」をめざす行動分析学には馴染まないように思われる。よって、以下に述べることはあくまで私個人の考えであり、行動分析学の研究者たちは私とは別の多様な考えを持っておられる可能性があることを予めお断りしておきたい。

 「人はなぜ生きるのか」についての私自身の考えはきわめてシンプルであり、

自然選択の過程で「生きる」努力をする動物だけが結果として生き残った

というものである。

 同じ環境のもとで、自分の生命を守る仕掛けをもった動物(個体維持に有用な形態的特徴や適応的行動を有した動物)と、そうでない動物(攻撃されても逃げない、怪我をしても治癒しない、危険な場所を避けるような弱化の随伴性が機能しない)が同数存在していたとすれば、とうぜん前者の傾向を持った動物のほうが生き残る可能性が高くなる。けっきょくこれは、
  • 生得性好子:生命維持に必要なモノ、環境条件
  • 生得性嫌子:生命維持に有害なモノ、環境条件
という形で子孫に受け継がれていく。種属の維持にはもちろん、偶然的要因、繁殖や子育てなどの優越性も関係してくるが、とにかく、地球上の動物は原則として「可能な限り生きる」ことに方向づけられていると言える。但し、子孫を守るために自分を犠牲にしたり、遡上するサケのように個体維持よりも繁殖を優先したりする場合もあり、これはあくまで原則である。さらに、種としては「生きる」ことが方向づけられていたとしても、個体のすべてが例外なく生きようとしているわけではない。であるからして、自殺を企図している人に対して、上記のような説を熱弁しても自殺を思いとどまらせることはできない。また、私なども長生きできればいずれ該当するようになるが、80歳、90歳と歳を重ねていく中では、生きるということについて生物学とは異なる意味づけが無いと、積極的な余生を送ることはできないようにも思う。

 もう1つの「人はなぜ存在するのか」という疑問だが、私はデリケートアーチランドスケープアーチがそこに存在しているのと同じであり、特別の存在理由はない、砂混じりの風で削られた岩の硬い部分が結果として存在しているだけだという立場をとっている。「なぜ存在」という疑問は、多くの事物が生成される仕組みを学ぶことで、「あらゆる事物には存在理由がある」という行動般化によって生じるものと思われる。しかし、自然界の殆どの事物は結果として「今ここ」にあるだけで、今ここにある経緯を詳細の並べたところで存在理由を説明したことにはならない。そういう疑問を持つ人は、どうして自分がそういう疑問をいだくようになったのかを振り返りつつ、どのように答えれば存在理由を示したことになるのか、もういちど考えることをオススメしたい。カルト宗教勧誘員にマインドコントロールされないためにも、「あらゆるモノに存在理由がある」とか「モノは存在理由無しには存在しえない」という疑問の前提は本当に正しいのかどうか、今一度問い直してみるべきだと思う。

次回に続く。